うさぎの書斎

司書教諭が読んだ本

ミクロの決死圏

「死」は恐ろしいことである。
人は、突然「死」に直面するとしばしばパニックになる。特に、それが原因不明で治療法も対処方法もわからずとなれば、集団ヒステリーともパニックともなり得る。

最近でいえば、エボラ出血熱がそうであり、少し前は各種新型インフルエンザ、エイズもまた新しい方であるし、現在進行形。パニックの割によく分からないままうやむやになったのは、狂牛病のあたりか。

 

さて、『医学探偵の歴史事件簿Ⅱ』がいつの間にか刊行されていて、しかも自分で図書室に受け入れていたにもかかわらず見過ごしていて慌てて読んだ。もちろん『医学探偵の歴史事件』も読んでいる。

 

医学探偵の歴史事件簿 ファイル2 (岩波新書)

医学探偵の歴史事件簿 ファイル2 (岩波新書)

 

  

医学探偵の歴史事件簿 (岩波新書)

医学探偵の歴史事件簿 (岩波新書)

 

 探偵ものの物語が大好きな私が読むのは自然のことだったが、実は勘違いからこれを読もうとした。その勘違いとは、「本業は医者という探偵の小説」と思って、わくわくしながら手に取ったのである。
もちろん、岩波新書という点で「あれ?」とは思った。でも永六輔の『大往生』や大岡信の『折々のうた』などのエッセイやコラムといった文芸作品もたまには出すし、ちくまプリマーでも変化球のように小説入れるからなぁ、とも思い、小説だと信じ込んだ。
ちなみに、この時点では「歴史」とタイトルに入っている意味は深く考えていなかった。「医学探偵」しか目に入っていなかったのである。

 

大往生 (岩波新書)

大往生 (岩波新書)

 

  

新 折々のうた〈1〉 (岩波新書)

新 折々のうた〈1〉 (岩波新書)

 

  

包帯クラブ (ちくまプリマー新書)

包帯クラブ (ちくまプリマー新書)

 

 


その次におかしい、と気がついたのは、NDCが「490.2」だと知った時であるが、すでに脳内では「この本は探偵小説」という刷り込みがされており、そのモードのまま読み始めたのである。


そのおかげかどうかは分からないが、探偵の事件解明の過程は、医者が病気を解明する過程と同じであるということが、すぐ納得でき、まえがきに対しても素直に納得できた。
だから、海堂尊や知念実希人といった推理小説作家がいるのもうなずけた。

 

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)

 

  

仮面病棟 (実業之日本社文庫)

仮面病棟 (実業之日本社文庫)

 

 

さて、本書では、その当時には原因やそもそもどういう病気であったのか分からない症例を、少ないながらも残された文献などから歴史上の人物たちの病気を推理していく。
その時代では、「奇蹟」であるような治癒話も、医学が進んだ現代では奇蹟でもなんでもないことが、様々な科学技術の発展をも同時に読み取れて面白かった。さらには、これだけ医学が進歩しても、まだ解明ではない病気もあり、それはすなわち今後のさらなる医学発展の余地があることをも示唆している。


なお、医者でありながら作家という人は、たくさんいる。森鴎外渡辺淳一、帚木蓬生、加賀乙彦南木佳士北杜夫藤枝静男夏川草介、など。

 

白い宴 (角川文庫 緑 307ー4)

白い宴 (角川文庫 緑 307ー4)

 

 

宣告 (上巻) (新潮文庫)

宣告 (上巻) (新潮文庫)

 

  

神様のカルテ (小学館文庫)

神様のカルテ (小学館文庫)

 

 
そもそも知性が高いから文章を書くことができる上に(森鴎外の時代はまさしく特別な知識階層だったわけだし)、医療を通して彼らは実に大勢の人の人生を垣間見る。生と死は人生そのものであり、彼らは経に性と死に対峙している。そしてそれらの体験が、小説という形になるのであろう。


最後に。
原因不明の病気に対してパニックを起こすのは、今も昔も変わらない実は普遍的なことなのだとも思った。

よく分からない病気を、すべて災いや魔女といったようなもののせいにできた社会というのは、いつ自分がその被害を被るのか怖く思う反面、そういう単純な社会がお気楽さが感じられて、アップアップの現代からその時代にタイムスリップしたい気分でもある。

ピカ

 8月6日なので、ヒロシマに哀悼の意を込めて。

 

小学校1年生の時の、母からのクリスマスプレゼントがこの本だった。

ひろしまのピカ (記録のえほん 1)

ひろしまのピカ (記録のえほん 1)

 

 広島の原子爆弾の投下については、この絵本で初めて知った。

以来、私は戦争の本に興味を持ち続け、中でも広島・長崎についてより強い興味を持ち続けている。もっというと、ジャンルがジャンルなだけに、この表現はふさわしくないように思うが、私の戦争文学好きとなった原点である。

 

この本から私が感じとったのは、灼熱地獄の熱さと、一方で不気味なまでの静寂である。原子爆弾によって、一瞬にして吹き飛ばされてしまった広島。その光景が目に浮かぶようである。

ヒロシマの悲劇について読んだ次の本は、少し前に話題になったこれである。

〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻

〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻

 

 私にとってこの本は、『ひろしまのピカ』に描かれた光景の裏付けとなった。特に皮膚が高熱で溶けてぶら下がってしまうのは、誇張ではなかったことを知った。

小学生当時は繰り返し読んだが、正直なところ今は読めない。絵を見るのが辛いのである。画風に批判的な意見があるが、それ自体は認める。認めるが、やはり原子爆弾がなぜいけないのか、そして戦争がなぜダメなのか、それを子どもに訴えかけるにはなくてはならない作品である。これがなくなったら、私達は原子力爆弾の威力を忘れ、平気で核と共存する道を選んでしまうだろう。そして歴史に学ぶことなく、同じ過ちを繰り返し、多くの命をムダにしてしまう。

 

小・中学校時代、学校図書館で、この手の戦争に関する写真集を見るのが大好きだった。そして戦争に関する本も、図書館にある限り読んだ。

その中で疑問に思ったのは、なぜ日本は戦争を起こしたのか、そしてなぜ負けたのか、

なによりどうして国際的にアメリカが責められず、そして日本もアメリカを恨んでいるようにみえないのか。子ども心に疑問はいっぱいあったが、どれも適格に答えてくれるものはなかった。ただただ、敗戦を受入れ、復興に専念した姿だけが浮かび上がる。玉音放送にもあった、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」を戦後も体現したようで、すなわちそれが日本人の国民性だったのかもしれない。その耐える強さが、戦後思わぬ速さで発展したようにも思える。

広島の原爆に興味を持ち続けた私は、広島の地を訪れ、平和記念公園および資料館を訪れるのは夢であった。

訪れ機会は、長崎の方が先だった。高校2年の修学旅行が九州で、長崎を訪れた。実際に長崎の街を歩くことで、広島より被害が軽微で助かった人も多かった理由が実感としてわかり、また資料館も初めて見る資料に興味深かった。

大学時代に広島を訪れることができ、資料館へ訪れたが、そこに並んでいる資料の多くはすでに本で目にしているものが多く、目新しいものがなかったことに落胆している自分自身に驚きショックだった。

 

昨年、再び広島を訪れた。

かつてのショックも和らぎ、改めて展示を見ることが出来た。展示されている人形の撤去問題直後であったため、戦争の悲惨さを伝える表現手段の問題と受け止める側の問題について考える良い機会が持てた。

戦争は、人間の本能や、政治力学から考えたら容易になくなるものではない。どんなに悪いことだとしても、暴力がなくならないのと同じである。

だからこそ、反戦運動平和運動は大切なのである。少しでも戦争を思いとどまるようにするために。少しでも悲劇を少なくするために。

その第一歩が、過去の悲劇を知ることでもあり、読書の効能として大切な事でもある。

 

 

 

 

奇跡のリンゴ

読書に関する本は、可能な限り入手している。

私の読書術というのは、誰をまねしたものでもなく、自己流である。そのためなかなか言語化して説明するのは難しい。自分の読書術の言語化にふさわしい表現を探して読み続けていると言っても過言ではない。

またあまりにも自己流で、子どもたちに読書の方法を教えるとしたら、一つの手法に限定せず、自分の好みでいろいろな手法の中から選ぶべきとも思っているため、さまざまな手法について情報を手に入れるようにも読んでいる。

さて、今回手にしたのはこちら。

 

 この本を読んでいるとき、気がついたのは、私はページを後方からさかのぼるようにめくるということである。たしかに中学生時代に、推理小説をラストから先に読むこと豪語した記憶があるから、今更気がついたというのもおかしな話だが、改めて実感した。結論を先に探し、どう肉付けされていくかを辿るのが、私の読み方らしい。

読書は、よく疑似体験という。本書でもそれを指摘するが、そのたとえがすごい。

すごくないですか? 本を読むということは、太宰治ドストエフスキーと何度も夕食をともにするようなものなのです。(22p) 

 実際それで感動するかといわれたら、懐疑的ではあるが、たしかにそうである。

読書は、本を通して思わず傷つくことがある。特に思春期に凄惨な場面が出てくるのに耐えられない生徒もいる。どんな正義的であったり倫理的なお話しであっても、時には過去に追った傷を思い出すきっかけとなり、ダメージを与えてしまうのも事実。

凄惨なシーンがでるような暴力的な小説は読むな、とはいえても、教科書に載るような古典であったり、社会問題を啓発するための内容である場合は、読むなと言うばかりか積極的に読めといってしまう。もっと配慮しにくいのは、その子どもが傷つくポイントがどこにあるのか、それは人によってさまざまなところにある。

私がよく生徒にいうのは、読書という疑似体験で、より悲しく辛い体験をしろ、とあえてけしかけている。それは疑似体験だから。もちろん、無理矢理ではない。意図せずそういう本に出会ってしまったら、である。もちろん、それ以降を読む読まないは本人の自由意志による選択の上でである。それによってダメージをうけても、疑似体験であり、それとおなじ様な体験をしてしまったときの予行練習として、そして自分ではない誰かがそういう体験をしてしまった時に支えられるように、心の準備の必要があるからだと言い聞かせている。

そしてもし疑似体験でも辛い思いをしたら、自分では抱え込まずに近くの大人にその思いを吐露するようにとも言っている。

疑似体験により苦しみをしり、また助けられる安心も知ることで、より成長したり、強くなれると思っているし、それが読書の成果の一つだとも思っているからだ。

 

名作とよばれる文学作品は、人間の心情という、時代や文化・文明が変わっても変化しない普遍的なものを描いているから、時代を超えて読まれている。だからこその名作である。

私は、そう思ってきたし、そう表現してきたが、茂木は次のように述べている。

古典を自分なりに現代に置き換えて読むおもしろさを発見できると、本の読み方が劇的に変わってくるはずです。 (124p)

 たしかに、時代を超えても置き換えられることは、すなわち「普遍」であるわけだ。

最近めざましいスピードで普及している電子書籍についても言及している。

私自身も電子書籍の愛用者である。まで、場所をとらない。一度に何冊も持ち歩き、探すのも検索機能がついているから楽である。あまりにも使いすぎて、iPad miniは三台目である。容量が足りなくなったり、バッテリーがへたったりするためである。

それでも紙の本の方がよいと思っているのだが、なかなかうまくは説明できていなかった。それを茂木は次のように指摘。

紙の持っている「見渡しやすさ」が、全体の中で出来事をとらえるということに効果的に作用する(184p) 

 まず電子書籍だと、ファイルサイズは明記されているから、相対的に多いか少ないかの検討はつくが、長編か否かという判別はすくなくとも一瞬ではできない。長編を読むならそれなりに覚悟は必要だし、逆に短篇あればもう少しあってもいいのにと、少々消化不良を起こす。

また、推理小説などを読んでいると、そろそろ事件の核心に近づいてきたかどうかも、全ページの中で読んでいる箇所がどこか本を持っている手の感触によって見当がつく。まだ半分ぐらいのところで事件の真理に近づいたなと思わせても、その位置であればこの後大どんでん返しがくる、という予想ができる。

なにより、あとどれぐらいで読み終わるか見当がつけられるのは紙書籍のほうで、残りのページ数如何で読み切ってしまおうかどうか判断できる。

本を読んで印象に残るのは、文章はもちろんなのだが、表紙の手触りやページの厚みによる大体の場所などとセットになって記憶に残るのである。手垢がついたり、装幀がぼろぼろになることで、その本を読んだという歴史が刻み込まれるのである。

読書の体験とは、これらのことも含んでのことと言いたい。

どの本がどう役立つかということはわかれないけれど、たくさん本を読むと、それが腐葉土のように発酵して脳の中にいい土壌ができる。(158p) 

その土壌が培われることこそが、読書の意義である。

悪党

好きな作家をあげる時、この数年間は南木佳士と答えてる。

もともと母が読んでいたこともあり、高校時代、母のところから文庫を持っていっては読んでいた。母の読書の傾向は、その時々ではっきりしていたので、南木佳士を読んでいたときには正直びっくりした。

高校時代に読んでいたときは、多分信州の風景描写に親近感を覚えていたのだろう。その後しばらく読まなかったが、やはり5年前ぐらいに母の手元に『家族』を見つけて読んで南木佳士熱が再燃したのである。 

家族 (文春文庫)

家族 (文春文庫)

 

 『家族』の中で南木佳士らしき主人公が不倫をしていた、という記述にショックを受ける程度に好きである。

この作品は、本校で編纂した『ブックリスト』にも掲載。現在入手不可なため、昨年度削ることも考えたが、これに代わるものは見つからず、現在も掲載したままだ。

理由は、私が一番気に入っているのもあるが、この作品は紹介すると高校生は意外と読むのである。純文学系では、太宰の『人間失格』の次に読まれているといっても過言ではない。

家族のあり方、親子のあり方に悩み多い思春期の高校生には、まず『家族』というタイトルに惹かれるようだ。だから読んでみると、高校生には想定外な展開に戸惑うようである。しかし、文体が語りかけるような易しい表現に、ホッとしながら読むらしい。そして内容はいささか介護問題という重く暗いものではあるが、遠くない将来の我が身と両親の姿を想像しながら読んでいるようである。

もし高校生に少し「固い本」を読ませたければお薦めである

 

 現役の医者として働きながらの執筆だから、南木佳士は多作ではない。だから次の作品が出るまでに、ともするとその存在を忘れてしまう。

しかしこの一年ばかりマイブームだったから、新刊はすぐに目についた。

陽子の一日 (文春文庫)

陽子の一日 (文春文庫)

 

 文学界新人賞受賞作「破水」の主人公のその後を描いたものである。

この40年弱の医療発展史でもあり、専門職であるがために抱える古くなった専門知識と新しい専門知識との軋轢、そして老医師と研修医や若い医師たちの価値観の違い、医療の現場にあるだろうなという諸問題を日常生活と、そしてかつての同僚・黒田の奇妙な「病歴要約」とからめながらさりげなく平易に描写している。

陽子の世代は、私の親世代。

彼女の息子との日常は、まさしく同世代の私の日常の一部とも重なった。

NHKテレビドラマの『大草原の小さな家』のこと。 

 死について怖く感じたのも息子とおなじ中学生時代。陽子のように黙って受け止める母だったら、もっと早く死に対して鈍感になれたのではないかと思う。

定年間近の古文の教師は、タバコのヤニで黄色くなった指先で鼻毛を抜きながら、あのなあ、医者なんて、むかしは貴族たちからみれば陰陽師とおなじ程度の扱いで、身分は低かったんだぞ。呪い師みたいなもんだな。黒田が悪党だって見抜いたのはたいしたもんだよ。おまえセンスあるよ。でもな、悪党って言葉は、いま使われているのとは異なる意味を持っていたみたいだ、むかしは。なんていうか、つまるところしぶとい野郎っていうような意味かな。

 

黒田は「医者は悪党」という。 

生に執着し、死にも執着する。だからこそ、他者の死に無理矢理にでも向き合えるのだろう。

 

南木佳士のかく女性像は、非常に生々しい。リアルなのである。生にしろ、性にしろ、外見も内面も。女性がうまく描けている。そのリアルさ故に、時たま自分の「女性」的な面に目を背けたくなる。

 

肩たたき

「家族」とはなんだろうとたびたび考える。

両親がそろっていても問題がある家庭はあるし、そろっていなくても立派な家庭もある。

両親の職業が、医者や弁護士といった世間一般的に「立派な」職業についていても、不幸せな家族がある。

一方で、世間には「恥ずかしい」職業についていても、幸せな家庭があってもおかしくない。 

at Home (角川文庫)

at Home (角川文庫)

 

 本書は、4つの家族の物語。

表題でもある『at Home』は、父親は泥棒、母親は結婚詐欺師。いわゆる「犯罪者」である。

当然、その子どもは、「偽造パスポート」作成に携わったり(主人公)、弟はゲームの世界で生きていたり、……と、この家庭を世間からみたら、「蛙の子は蛙」と言われるのがオチである。

この両親、けっこう情けない。

主人公である息子に頼り切っている。だから泥棒でもしないと生きていけないんだろうな、と想像はつく。

両親はまるで息子に守られている。この段階で、一風変わった家族愛が垣間見られる。

そしてある日、情けない両親が我が子のためちょっとばかり仕事(といっても犯罪だが)をがんばったら、ドジって逆に事件に巻き込まれてしまう。

その危機的状況を脱するために、情けない父親はがんばる。けっして褒められるような方法ではないけれども、妻と息子を守るためにがんばる。

そこにもまた家族愛が存在する。

以下、ネタバレ含む。

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無限の星空

高校時代、吹奏楽部、文学部、演劇部と部活を渡り歩いた。
一番長く最後まで所属したのは文学部。
演劇部は準部員の立場。友人から頼まれた。

高校二年のときの演劇部。
部員三名。
頼まれて入った準部員二人。

さあ、なにやるか、金もないから大道具に金もかけられない。

ガラスの仮面 49 (花とゆめCOMICS)

ガラスの仮面 49 (花とゆめCOMICS)


ガラスの仮面』はすきでも、人材物質技術あらゆる面であの世界の舞台ができるはずもなく。

そこで顧問は、創作劇にした。
その名も『来たれ!演劇部員』。
もう破れかぶれ。

部員不足に悩む演劇部員、部員をどうやったら集められるか知恵出し合って、大勢来たらどんな舞台をやるか大きな夢を見る。
銀河鉄道の夜をやりたい!
高校演劇全国大会最優秀の舞台を自分たちの手で上演したい!(作品名は忘れた。大勢の自転車に乗った役者が一気に舞台に出て、『ニーハオ!』といって一瞬で去っていく話)
そのためには部員を集めなければ!
そこへ面倒なことはやりたくなくて非協力的な部員(私)やら、冴えない男が入部したら突然舞台映えしてそれまでいた部員を霞ませてしまったり、そんなドタバタ劇(実はラストどうなったか忘れた。)

はい、今回何の作品を紹介しようとしたのかもうおわかりですね。

幕が上がる (講談社文庫)

幕が上がる (講談社文庫)

もう涙が出るほど、私の高校時代が投影されている。
ほかの学校でばりばり演劇部員だった子が転校してきたり、女優だった顧問がいた訳ではないけど、物語の一つ一つのエピソードが、既視感。
私のもう一つの物語、と言い切ってもいいかもしれない。
舞台を作り上げる、夢は地区大会から県大会へ。
いろいろな作品との出会いでふかまる解釈。
主人公たちは大きく成長していく。青春小説としてはもちろん、部活の物語として読むのも生徒たちには物語世界に入りやすいかもしれない。

「だいたい勝つのは、それぞれはまり役って言うか、あて書きとか、そういうのが上手くいってて……あと……」「下手の子が無理に難しい台詞とか言わなくていい芝居」(96p)
まさしく、演劇そのものにあまり興味のない私が舞台にたてたのは、この台詞の通り。

さて、我が校も地区大会から県大会へ、確か8年ぶり位にすすんだ。(調べたら聞いたことのない過去の実績も載っていたが…)
なぜ我らが進めたのか。
だいたい高校演劇なんて、二人上手い子がいれば、けっこうどうにかなる。(13p)
この年、上手いのが3人いた。
あとは、部員集めに四苦八苦な姿が、関係者は他人ごとではなかったらしい。
その上、部員がいない、いないと言っていたのに、突然全国大会場面に暗転になって、20人ぐらいが一気に出てきて「ニーハオ!」といったのはびっくりし、そんな人数集めたことに審査員の胸をうったらしい。

おかげで私たちは県大会に行くことができた。

さて本に話を戻そう。

私にとってこの作品は、高校時代のアルバムのようなものである。

しかし、最後があまりいただけない。なんか余韻も何もない。
子ども相手に、裏切りとも思えるような態度はあんまり好きではない。
そこは覚悟の上で読んでほしい。

シンパシイ

 当事者ではないけれど、大きな事件が衝撃の記憶で残っていて、その話になると多少なりとも興奮するという事件は、誰にでもあるらしい。

うちの母の場合は、ケネディ大統領暗殺、三島由紀夫割腹自殺、浅間山荘事件。

私は、日航ジャンボ機墜落事故サリン事件(松本・霞ヶ関両方)。

金閣寺炎上事件が、これに類する大事件とは、酒井順子著『金閣寺の燃やし方』を読むまで思いもしなかった。

金閣寺の燃やし方 (講談社文庫)

金閣寺の燃やし方 (講談社文庫)

 

 

この作品の主題でもある「金閣寺炎上」事件が起きたのは、1950年7月2日のこと。終戦から五年経ってるとはいえ、まだまだ衣食住が足りていない復興半ばの時。幸いにも戦火で焼かれることなくここまで来たのに、まさかの火事、さらには見習い僧による放火での国宝消失は世間に大きな衝撃を与えた。

この犯人に対して「シンパシイ」を抱いた作家がいた。『金閣寺』を書いた三島由紀夫と、『五番町夕霧楼』と『金閣炎上』の水上勉

 

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 

  

五番町夕霧楼 (新潮文庫)

五番町夕霧楼 (新潮文庫)

 

 

金閣炎上 (新潮文庫)

金閣炎上 (新潮文庫)

 

 おなじ人物にシンパシイを抱きながら、その人物について全く違う人物に描いていることは、酒井が指摘するまでもないのだが、その両者の描き方の違いを、三島と水上の生い立ちを追い、比較させながら、ユーモラスに時には辛口な酒井節で解説されている。

両者の比較もまたうまい。生まれたての記憶が光りだった三島に対して、暗い音がその時の記憶だった水上。

太平洋側のそして首都である東京でエリートコースを歩んだ三島が「表日本」の象徴で、日本海側の「裏日本」で生きたのは水上。

金閣およびその炎上がもたらした「美」を徹底的に描いたのが三島なら、その「美」の裏にあったものを書いたのが水上。

私自身、三島の『金閣寺』を高校時代に日本文学の名作の一つという理由で読んだ。ちなみにそれが実際の事件だったと知ったのは、現代社会の資料集だった覚えがある。もしかしたら国語便覧か。しかし水上勉は、読まなかった。というよりこの2作品をの存在をついこの間まで知らなかった。言い換えれば、三島の『金閣寺』の方がメジャーなのは確かなのだ。

そして、世間一般的に今でも三島の『金閣寺』が売れている理由が、これでよくわかった。人は徹底的に暗いイメージよりも明るいイメージの方が好む。

酒井構成や文章の巧みさは、最後まで期待を裏切らない。中盤まで、三島の「光」と水上の「闇」を徹底的に読者に植えつけながら、三島と水上の最期では見事にそのイメージを逆転させている。そしてその両者の中心軸には犯人がかならず添えられ、つねに三位一体で語られるのである。

本書の元ネタである『金閣寺』や『金閣炎上』を読んでから本書を読んでも楽しいだろうし、本書を読んでから親近感持って元ネタを読むのも楽しいだろう。

日本文学そのものを読み慣れていない場合には、本書はきっかけ本としても面白い。

 

金閣のギラギラは、つまり義満のギラギラ。木造建築物は、年月を重ねれば重ねるほど渋さを増し、建てた当初の生々しさを想像しづらくなるものですが、金閣の場合は放火という事件の後に再建されたことによって、はからずも私達に、義満の当初の意思を思い出させてくれました。そう考えてみれば、京都という街は、為政者や貴族武士達の、千年分の生々しい思いが宿っている、生々しい土地なのです」(p26)

あまりにも立派な再建で、消失前の金閣寺をイメージできない現代人の私達。金閣寺のパンフレットには放火によって消失されたこの事件は書かれていないという。

人の人生や価値観に大きな影響を与えた大事件ではあったが、二人の作家の働きによって「金閣寺炎上」はフィクションの世界では確固たる地位を築き、現実社会では「義満のギラギラ」によって炎上事件そのものがなくなってしまった。