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うさぎの書斎

司書教諭が読んだ本

事実こそ小説

もともと評伝が好きである。

一人の人間の生き様を読むのが楽しい。その人のハレの部分もカゲの部分も、どちらもあって初めてその人生が色彩豊かになる。

そして、ここのところ吉村昭がマイブームになっていた。

だから、実家に帰省中、長野の大型書店でこれを目にして買わないはずがない。

評伝 吉村昭

評伝 吉村昭

 

 このブログを開設した時の記事にも書いたように、吉村昭は私にとってはホッとする文体の作家で、作品そのものに強い感銘を受けてファンになったというより、乱読していく中でいくつかの作品に出会い、ホッとする印象を残した作家である。

 

rabbitstudy.hatenablog.com

 

もともと好きではあったが、最近のマイブームに火をつけたのが、これ。

 

味を追う旅 (河出文庫)

味を追う旅 (河出文庫)

 

 今年6月、勤務校の図書委員たちをつれて、店頭選書会にて生徒が選んだ一冊この手のものの中に、紛れ込んでいたのである。

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

 

 私と司書さんが早速読み、以来私の吉村昭熱が再燃。

むろん、東日本大震災後にもこれを読んでいたのもある。 

三陸海岸大津波 (文春文庫)

三陸海岸大津波 (文春文庫)

 

 

では吉村の作品でなにか好きかと問われると、正直わからない。

もともと吉村作品との出会いは、妻の津村節子を読んでいた中での出会いである。

 

さい果て (文春文庫)

さい果て (文春文庫)

 

 大学時代の研究が、女流文学だったからだ。そのうち、ゼミで現代の短篇小説を扱う中でさまざまな作家の短篇を乱読し、その中で吉村作品ともであったのである。

そんなのだから、同じ頃読んだ三浦哲郎と混乱することすらある(汗)

確か、津村の作品を読んでいて、吉村の姿を意識したのはこの場面だ。

「あのね、鯛が骨だけで泳いでいるのよ。ほんとよ」

 春子は熱い緑茶をいれながら言った。志郎は返事をしなかったが、春子の話は耳にはいっているらしかった。

「歯医者さんのグラフ雑誌に写真が出ていたの。なんでも鳥羽の旅館の料理人が苦労したらしいんだけど、鯛の活きづくりを観光用に研究して、鯛がわずかの間生きていられる限界まで身を剥ぎ取って泳がすことに成功したんですって。頭と内臓を残して、骨が透いて見えるほど肉を取ってしまってあるのよ。だから、まるで骨だけで泳いでいるみたいに見えるの。」

 志郎の顔に明らかに興味をそそられたらしい色が浮かんだ。(『玩具』より、『評伝吉村昭』にも引用部分あり)

 

玩具 (集英社文庫)

玩具 (集英社文庫)

 

 吉村自身は大家族の家であったが、両親・兄弟ともに若いうちに不幸が相次ぎ、また自身も満身創痍の身であったから、骨だけで泳ぐ鯛に興味を持ったことは容易に想像できる。当時は、妻からの夫に対してのまなざしを読み取るだけであったが、今回吉村の評伝の一部として読み返してみるとなかなか面白い。

『評伝 吉村昭』は、あらためて私がなぜ吉村を好きなのかという理由をまるで代弁してくれているかのように書いてある場所がいくつかあるので、あげてみたい。

吉村は驚きを感じて身をひそめ沈黙した。熱気の中にいたような戦時中に、それほど多くの戦争批判者がいたことは想像することも出来なかったのだ。吉村昭自身は勝利を信じて働きつづけ、戦争に積極的に参加した軍国少年だった。そんなことから、まるで自分が犯罪者であるような怯えにもとらわれた。しかし、次第に吉村昭は、そうした“進歩的知識人”なる人種の発言に反撥を抱くようになる。その体験が、のちに戦史小説を執筆するに当たっての原動力になっていることは疑い得ない。(30p)

 

洗脳教育的な戦前の教育の浅はかさと恐ろしさを知ると同時に、『進歩的知識人』なる人々への反撥もまた理解できる。

歴史を後から批判することは簡単である。しかし批判やまた逆に憧憬をもっていても意味はない。大切なのは、過去の歴史から何を学び、それを未来に活かしていくのかが大切であって、実は自分は戦争には反対だったと後から言って、吉村が抱いたような「犯罪者であるかのような怯え」から逃れようとすることは、自らの立ち位置を冷静に捉え判断できるはずの『知識人』とは遠く乖離した姿である。

 小さな世界で、くっきりと人間の営みが浮き彫りされているそのジャンルがきわめて魅力に満ちたものに感じられた。志賀直哉の文章の端正な文章に、日本語の範とすべき文体を感じ、森鴎外歴史小説に、簡潔な文章が峻烈な主題を冷徹に表現しているのを知った。(42p、『私の文学漂流』よりの引用部)
私の文学漂流 (ちくま文庫)

私の文学漂流 (ちくま文庫)

 

私が大学時代に研究対象として短篇小説を主に選んだのも、まさしく吉村と同様に人生き様がくっきりと描かれている点であった。もちろん、長編として評伝が好きなのもまた、この延長であろう。

吉村昭の最後の死の選択については、いろいろ思うことも多いので別の機会に。

 

さて、本書内にはたびたび同人誌について出てくる。私より下の世代で同人誌となると漫画やアニメの世界となってしまう。頭では違うとわかっていても、文豪達の同人誌の位置づけは、いまいち実感をともなった理解ではなかったので、そのあたりは作家達の人間関係などが、本書で学べて面白かった。

そして同人誌ネタで面白かった話が、写植・印刷を刑務所に依頼していた話である。(45p)

私が高校時代、文学部に所属していて、年に一度部誌を発行していた。当時はワープロが普及し始めたころで、自分で活字にして印刷・製本も可能になり始めたころであったが、ワープロはまだ高校生には高すぎるおもちゃであり、一部の人間しかもっていなかった。そのため、活字本は写植から依頼する必要があり、わが文学部では長野刑務所に毎年依頼していたのである。

入口の守衛所で女子高生たちがいる姿は、近所の人達には奇異な光景であっただろう。

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私が在籍していた頃の部誌。先日母校の学校図書館を訪ねたら、保管してあったモノを発見。

今は写植の必要ばかりか、図版すらもコンピューターで素人にも可能となり、また印刷も安価に出来るようになった。いまでも部誌そのものは刊行しているようであるが、印刷はどうしているのだろうか。ぜひとも知りたい。