東京オリンピックは、高度経済成長期のにぎやかなお祝い
戦後70年ということで、この70年間を振り返る書籍が何冊も刊行された。
私も勢いに任せて買ったが、なかなか本腰入れて時間かけて読む機会がなく積ん読状態。
ようやく読んだのが、『戦後史入門』。
私自身は文学部出身でバリバリの国文学。一応、歴史的視点をいれて論じること自体はできるのだが、歴史学は一般教養で学んだ程度。
ところが、就職してから、なぜか歴史と関わることが多くなり、かなり真剣に大学で歴史学を学び直そうかと悩んだ時期もあった。それは歴史について書いたり話したりするたびに、そもそも歴史とはなんなのか理解できないままでいる自分が歴史を語ることに対して恐怖や、場合によってはおこがましさを感じたりしてなんとか学びたいと思ったのである。(これほど苦悩してるのに、その手の仕事を押しつけるって一体……)
結局、学ぶ機会はないままいまにいたるのだが、その答えは本書にあった。
たくさんの出来事から、ある出来事を抜き出し、別の出来事とむすびつけて説明することが歴史なのです。歴史は出来事を解釈し、語る営みです。(16p)
常々肌で感じていたことであったが、同じことを体験していても世代によって言うことがちがったりしていて、正直なところ判然としないままできていたのだが、それそのものが歴史だったのだ。
解釈し、語る以上は、人によって違うものとなる。これがすなわち、視点や立場が変われば、歴史の中の呼び方が変わるというものである。
太平洋戦争と大東亜戦争、敗戦と終戦。両者の違いをこれまでも漠然と区別しながらもどうしてだろうと疑問には思っていた。解釈や切り口、強調するところがちがうため、語られる歴史は自ずと違うものとなるのだ。
そしてなにより、
歴史は、いつも「いま」を説明するために考えられている(111p)
のである。
これだけ語る人によって違うものだといいつつも、やはり身勝手に語っていてはいけないことを筆者は、『三丁目の夕日』と『焼肉ドラゴン』を比較しつつ次のような警鐘を鳴らす。
歴史を記憶だけで語ってしまうと、自分が大切な記憶を失い、他者が大事にしている記憶への想像力が働かなくなってしまう。( p)
記憶は、その人や集団のアイデンティティとかかわっていますから、他者の記憶を知るためには、少し距離をとって、その記憶を歴史の視点からとらえ直さなければならないのです。(83p)
歴史は起こった出来事がすべてその後の歴史として語られるわけではない。一定の「プロセスを経て、はじめて歴史になる」のだ。
これは先日身をもって理解していた。昨年の出来事を他の仕事で紹介しようと振り返ったとき、どれも選べなかったのである。その時は生意気にも「まだ最近のことで、歴史の評価が定まっていないからよね」と思っていたのだが、その違和感自体は本書で裏付けられ、自分の中で納得できたのはよかった。
歴史の中では珍しく、同時代の人がいろいろな方向に向かって生きているにもかかわらず、あたかも事前に「流れが一つに決まっていたかのような一瞬」があり、その一種の切断点が1945年8月15日の終戦の日であると筆者は指摘。それから70年間に起きた出来事をとらえようと試みたものであるし、戦後のとらえ方も大変勉強になったのだが、それ以上のしもしも歴史学とはなにか、を学べた一冊。