読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

うさぎの書斎

司書教諭が読んだ本

「隠れ読み」人生

我が一家は読書家、というより活字中毒一家であった。幼い時から、家の中には本が溢れていた。かつては「教育県」といわれ、さらには教員ないし教育関係に仕事に従事した人が多かったせいもあってか、本を買うことが何よりの楽しみであり、貧しい我が家では唯一の贅沢でもあった。

そんな一家に私が生まれたのだが、母はいわゆる「教育ママ」としてがんばった。英文科の大卒ということもあって、児童文学に対する心眼を持っていた。特別児童文学を勉強したわけでも、今みたいにインターネットがある時代でもないにも関わらず、出版流通事情がよくない長野県の山の上で、心眼があったということはすごいことである。

だから子どもに与える本も厳選していた。それは今でも感謝している。その母が買ってくれた全集といえば、これら。

集英社『ピクチャーランド(全25巻)』

この中の「ピッピロンドンへいく」がとりわけ好きだった。私の好きな西洋諸国であげるとすればイギリスをあげるのは、ピッピとホームズファンだからだろう。

講談社『母と子のメルヘン』

これは挿絵の素晴らしさで母は選んだらしい。ただし、内容は『サンドリヨン』にしても白雪姫にしても、子ども向けとしては原著に忠実(もしくは近い)で、けっこうグロテスクな人間の心の闇も見えたシリーズだった。

しかし、うちの母、そもそもがかなりの吝嗇(まあ、そのお陰で父の年収の割に私を東京の、しかも博士後期課程まで出してもらえたのだが)の上に、自分の読む本を買うお金を削ってまで娘に買い与えるのは苦痛だったらしく、この全集は残念ながら全巻買ってはもらえなかった。

コレクター気質も強い私にとっては、この経験から全集ものを全巻買うことが夢となり、現在の書籍には散財するようになった原点となっている。特に又従弟が、岩波少年文庫を相当数買って貰っていたので、うらやましいことこの上なかった。

ちなみに全集をそろえなければ気が済まないコレクター気質は父からのものか。数年に一度、高額な全集(ブリタニカ大百科も)を衝動買いしては夫婦げんかをしていたのを覚えてる。(そして娘は漁夫の利の如くそれを読みあさる)

話がそれた。

こんな吝嗇家の母だったから、娘に本を買い与えるのは、クリスマスと誕生日のみ、下手するとわずか2週間しか違わないため、クリスマスもお年玉も誕生日も一緒にされた。だから成長するとともに祖父母・親戚には図書券をねだる知恵がつき(現金だとすべて貯金にまわされた)、また祖母二人で隣町まで買い物に行くときにおねだりして買って貰った。あとはひたすら学校図書館にお世話になった。

また本があると勉強もお手伝いも日常の歯磨きすらすべてやらなくなるため、本が手元にあるだけで怒られるようになった。だから、隠れて読み続け、時には激高した母に本を燃やされたことすらある。

と、本については思い出が尽きない。

乱読の私にとって、学校図書館では、児童向け文学全集は格好の乱読の対象だった。残念なのは、そこに文字があれば良かった子なので、どこの出版社の物だとか、装幀はどうだったのか全く覚えていない点である。ちょっとだけ、読書記録の大切さを感じた一瞬。手かがりがない、うえに読んだ作品もいろいろな全集と混同しているため作品名だけでは絞れなかったりし、おまけに完全なる記憶違いも多いのでその全集について語れないのだ。ちなみに前述の全集についても、特定するのはかなり困難で、ピクチャーランドにいたっては、実家の倉庫から発掘してようやくわかった次第。

そんな訳で、人文書院のツイートで『少年少女のための文学全集があったころ』を出張滞在先で知るやいなや、書店に取り置きをネットで依頼(いやはや便利になった。宅配にしなかったのは、取り寄せと輸送時間すらもったいなかったため)。 

少年少女のための文学全集があったころ
 

 この本の感想を書くのは、私には難しい。

隅から隅まで共鳴してしまうからだ。そうでなかった部分は、こういう感性を持てた筆者に対する憧れであったり、羨望を感じてしまった。「読書感想文の憂鬱」の中で筆者はこう言う。

子どもに読書感想文を書かせることが果たしてよいことかどうか疑問に思うのは、作品を読んだ時に受けた印象を「かきまわしてはいけない」と思うからだ。

 

本当に大きな感動を覚えたとき、それは恐らく一生、その子の心に残る。言葉にしないまま、そっと胸の奥にしまっておくことで、その感動は子どもの成長と共に熟成し、心を豊かにする。

先日のこと。高校2年生のうちの生徒達には、『こころ』を読んでの感想文が出されているのだが、それに関する会話が耳に入ってきた。

 

こころ (ちくま文庫)

こころ (ちくま文庫)

 

 「この感動は心に留めておきたい。文字に起こすことで陳腐なものにしたくない」という。教師に向かってではなく、子ども同士での会話であるから、本心だったのだろう。語彙の量も豊富ではない子どもに、心の奥底にあるものを言語化させるのは難しく、その感動が書き切れない場合も多い。

 

ピアノリサイタルでの隠れ読みのくだりでは、彼女がなぜそんなにも『大きな森の小さな家』に夢中になれたのかよくわかったし、一方で母親に対する畏れも手に取るほどわかる。 

大きな森の小さな家 ―インガルス一家の物語〈1〉 (福音館文庫 物語)

大きな森の小さな家 ―インガルス一家の物語〈1〉 (福音館文庫 物語)

 

本書から感銘を受けるのは、具体的な作品に対す思いだけではない。司書教諭として、そして調査等が好きな私の気持ちを代弁してくれる箇所も多い。

前述のワイルダーに夢中になるあまり聴いていなかったピアノリサイタルを調べる過程や、「新しい女の登場」での与謝野晶子から「メリー・ボビンズ」にたどり着いた過程で探究心が満たされた時のわくわく感や充実感が書かれている。このわくわく感などの興奮が、次なる知欲求を満たそうとする原動力となるのだが、世の中の人の興奮をわかってもらうのは難しい。しかしこのような親しみやすい文章を紹介すれば、少しでもわかってもらえるのではないかなと思う。各作品についての部分も生徒に紹介したい大きな理由だが、私はここの部分も生徒に読むよう強く勧めたい。

 

筆者は、数多くの外国作品に触れ、また翻訳や抄訳についても本書で多く言及している。人の名前の表記や、言葉遊びのところにおおきく同意しつつも、筆者に対して強い憧れを抱くのが、子どもの頃に外国作品に純粋に楽しんで読んでいたという点である。

残念ながら、私にはそれができなかった。その当時にはその違和感ないし、作品に共鳴できない理由がわからなかったが、いまではわかる。西洋文化事情が全くわかっていなかったからである。

もちろん、児童向けの作品は、そのような知識が皆無でも充分わかるようになっているはずなのだが、活字中毒だったから活字をてはいたが、理解できないと心に入り込むまでは行かなかったのだ。

おちゃめなふたご」シリーズなどは好きではあったが、イースター休暇などが理解できず、季節感もつかめなくて困惑し、次第に外国文学から離れた要因でもあった。

 

おちゃめなふたご (ポプラポケット文庫 (412-1))

おちゃめなふたご (ポプラポケット文庫 (412-1))

 

 

また「母を訪ねて三千里」などのように、なぜ子どもを置いてまで他国に出稼ぎに行くのかも理解できず、さらには子どもだけで移動していることや、もっというとイギリスとインドの関係も良く理解できず、さらには凍死も理解できなかったから、長いこと「マッチ売りの少女」がどうしてマッチの火が消えるとともに死んでしまうのか理解できなかった。

私が再び外国文学に戻ってこれたのは、キリスト教主義学校で働くようになり、聖書について少しずつ学ぶようになってからである。キリスト教を知ることで、私の文学の世界が広まったのはいうまでもない。

幼かった私の頭は、ちょっとでも疑問にぶつかるとその先にある作品世界に入り込めなかったが、もし我が子がいたら、もちろん我が子でなくても全ての子どもたちに、私の二の舞を演じないように導いて行けたらと思ってる。その先まで行けた時、作品の文化的背景について全く知らなくても、なんとなくでもその作品から学べるのだろう。本を等して作品の文化的背景を知る意義について、筆者は「少年少女全集を永遠になれ」の章の最後で指摘している。

筆者は、『あしながおじさん』だけは買ってもらえなかったと嘆いているが、その背景は筆者の母君はそうとう英語に造形が深かったと推測される。たぶん原書で読んでもらいたいというだけではなかったはずだ。『あしながおじさん』も私にとっては読みにくい作品の一つであった。『アンネの日記』も同様。それは人称のせいでもある。

日本語の作品は、基本的に一人称の世界である。現代でこそ三人称もあるが、三人称はあくまでも神の視点をもつキリスト教文化であるから成り立っていたものである。だから英語では一人称から三人称まで明確な人称による区別がついているが、日本語に関しては基本が「私」である。したがって一人称以外は根づいていない(現代はたぶん「慣れた」という程度か)。だから日本語での二人称小説は日本語話者にとっては違和感を感じるのではないかと推測している。英語で読むから生きる人称であるならば、英語で読むべきである、と母君はそう本能的に(?)感じたのではないだろうかと推測して楽しんでみる。ちなみに『アンネの日記』は一人称ではあるが、他の人称があっての一人称である。そこは日本人の一人称とは異なるものだと感じている。

本書では多くの作品が紹介されており、懐かしく思う。その懐かしさを深めるために、少し読み返してみようと思う。特に大好きだった『若草物語』など。

もちろん知らない作品もあったので、ぜひとも読んでみたい。幼かった頃の時間を取りもどすように。

したがって、本書はは出てくる作品を読んでから読むのもよし、本書を読んでから読むのもよし、振り返りつつ感銘を共有したくなってから、本書を読み返すのもよし。幼い時から本好きだった人には至福の時を与えてくれる1冊だと思う。

 

そして相変わらず私の活字中毒の日々は続く。本を読んでいる限り、旦那のご飯も猫の餌もなし。今では座り込んで本を読んでいる限り餌はもらえない、と猫すら悟っている。