うさぎの書斎

司書教諭が読んだ本

戦争と平和を考える――「戦争はなかった」小松左京

人というのは「忘れる」生物である、とつくづく思う。しかも、けっこう「意図的」に。苦しみ、悲しみで、心身共に追い詰められるのをまるで防御するかのように「忘れる」。先日、宮城県石巻市立大川小学校跡を訪れた。そこで改めて「記憶」の大切さと「風化」への恐怖を身を以て実感した。

そんなことを思うようになったのは、東日本大震災の時である。そしてこの「忘れる」は日本人特有の文化ではないかと思うようになった。その理由は韓国と比較しながらいつか述べたい。ともかくも、震災以後、日本人の「忘れる」文化についてつらつら考え続けている。

この「忘れる」文化について思うようになったのは、東日本大震災と、そして早くも風化した様にも見える阪神大震災といった災害を通じてであるが、戦争もまた「忘れ」られ様としているのではないか、という危惧をこの20年抱き続けている。

戦後50周年の時は、まだそこまでは実感していなかった。戦時中、人間魚雷や特攻隊の生き残りの方々はもちろん、原爆やひめゆりの関係者も精力的に語り部などをしていた。彼らの語りを通して、「戦争」を身近に感じていた。

2015年に「戦後70年」を迎えたときも、さまざまな書籍が特集を組んだかのように出版されたため、私も結構な冊数を手に取った。その時漠然とした不安を抱いたことを思い出す。

「戦争を語れる体験者がいなくなった」と。

そして

「戦争の記憶が薄れてしまった」と。

戦争を体験したといっても、記憶が残っているかどうか定かではない幼少時の人ばかり。戦争を青年期以降で過ごした人々が少数でも残っているとはいえ、意思疎通もままならない年代である。

戦争を知らない人間が書いたものは、どんなに調べていようとも表面的にならざるを得ない。また幼少期の体験者たちは記憶の風化とともに、良くも悪くも「美化」された記憶に置き換わり、凄惨さを伝える言葉に置き換えることはできていないと感じたのだ。

 

そんなことを思っていた先日、とある講演会で次の作品を取り上げて戦争文学に関しての言及があった。 

  

戦争童話集 (中公文庫)

戦争童話集 (中公文庫)

 

 

新装版 父の詫び状 (文春文庫)

新装版 父の詫び状 (文春文庫)

 

この作品からは「ごはん」が。 

 

 

 ここからは小松左京「戦争はなかった」が話に挙げられた。

戦争に関わる小説ということで、講演者はこの無作為に三作品をピックアップしたのだが、選んだ後に三人の共通性に気づいたらしい。

一つ目は、彼らの生年。

野坂昭如 1930年

向田邦子 1929年

小松左京 1931年

いずれも終戦時には15~6歳、多感な時期を戦争を子どもという「弱者」の視点で見続けてきた作家であった。

そして作品の発表年も同時代である。

野坂昭如 「戦争童話集」1975年

向田邦子 「ごはん」1976年

小松左京 「戦争はなかった」1974年

いずれも40代後半、戦後30年後に書かれた物語であった。

講演者は、特に「戦争はなかった」を取り上げ、あらすじを紹介してくれた。

主人公が 旧制中学時代の同級会に参加した時、軍歌を歌おうとしたことをきっかけに、どうやら自分以外の人間は、先の戦争の記憶がないことに気がつく。

自宅に戻って、学童疎開していたはずの妻に聞いても、戦争はなかったといいわれる。

混乱した主人公は、本屋に行って戦争の事実を探し出そうとするが、戦争文学として名高い、

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 も、 

真空地帯 (岩波文庫)

真空地帯 (岩波文庫)

 

 も、 なかった。

タイトルに、「戦争」があったと思いきや、

戦争と平和〈1〉 (新潮文庫)

戦争と平和〈1〉 (新潮文庫)

 

 である。

 そして「人間の条件」を見つけたが、それは

人間の條件〈上〉 (岩波現代文庫)

人間の條件〈上〉 (岩波現代文庫)

 

 ではなく、 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 であった。歴史の本にも、二二六事件までは記憶にあるとおりだが、その後はどんなに読んでも知っていることとは違って混乱するばかり。

広島にも行ったが、そこに原爆ドームはなかった。

 

この物語の重要な点は、戦争の有無もそうであるが、物語の「現在」は「平和」であるという点である。

主人公は、先の戦争があったからこそ、

主権在民の民主国家であり、天皇が象徴になり、徴兵制が廃止になり、平和憲法ができ

たと信じているが、周りはこれっぽっちも信用しない。そればかりか、

だけど、現実は、そんな大戦争がなくても、そういう風になったんだ。それでいいじゃないか 

と言われてしまう。

この部分に、今の日本の平和が、300万人とも言われた犠牲者の上に成り立っていることの重みがあることを、逆説的に私たち読者に提示しているのである。

 

この物語について聞いて、私は空恐ろしい物を感じた。作品中でも「風化」としてこのような現象が起きたのではないか、と主人公は考察しているが、まさしく現代の姿そのものだと感じたのである。小松左京は、遠くない未来に起こりうることとして警鐘的に描いたのではないだろうか。

 

そんなことを考えながら、講演会のその日のうちに左京の作品が収録された戦争小説集『永遠の夏』を購入した。

お盆中は、改めて戦争とそれがもたらした平和の意味、そして記憶の風化について考えたい。

 

なお、野坂、向田、小松の三作品については、今度ラジオでの対談でも語られるらしいので、興味のある方はどうぞ。

 

高橋源一郎と読む「戦場の向こう側」

[ラジオ第1]
2018年8月15日(水) 午後9:05~午後9:55(50分)