うさぎの書斎

司書教諭が読んだ本

奇跡のリンゴ

読書に関する本は、可能な限り入手している。

私の読書術というのは、誰をまねしたものでもなく、自己流である。そのためなかなか言語化して説明するのは難しい。自分の読書術の言語化にふさわしい表現を探して読み続けていると言っても過言ではない。

またあまりにも自己流で、子どもたちに読書の方法を教えるとしたら、一つの手法に限定せず、自分の好みでいろいろな手法の中から選ぶべきとも思っているため、さまざまな手法について情報を手に入れるようにも読んでいる。

さて、今回手にしたのはこちら。

 

 この本を読んでいるとき、気がついたのは、私はページを後方からさかのぼるようにめくるということである。たしかに中学生時代に、推理小説をラストから先に読むこと豪語した記憶があるから、今更気がついたというのもおかしな話だが、改めて実感した。結論を先に探し、どう肉付けされていくかを辿るのが、私の読み方らしい。

読書は、よく疑似体験という。本書でもそれを指摘するが、そのたとえがすごい。

すごくないですか? 本を読むということは、太宰治ドストエフスキーと何度も夕食をともにするようなものなのです。(22p) 

 実際それで感動するかといわれたら、懐疑的ではあるが、たしかにそうである。

読書は、本を通して思わず傷つくことがある。特に思春期に凄惨な場面が出てくるのに耐えられない生徒もいる。どんな正義的であったり倫理的なお話しであっても、時には過去に追った傷を思い出すきっかけとなり、ダメージを与えてしまうのも事実。

凄惨なシーンがでるような暴力的な小説は読むな、とはいえても、教科書に載るような古典であったり、社会問題を啓発するための内容である場合は、読むなと言うばかりか積極的に読めといってしまう。もっと配慮しにくいのは、その子どもが傷つくポイントがどこにあるのか、それは人によってさまざまなところにある。

私がよく生徒にいうのは、読書という疑似体験で、より悲しく辛い体験をしろ、とあえてけしかけている。それは疑似体験だから。もちろん、無理矢理ではない。意図せずそういう本に出会ってしまったら、である。もちろん、それ以降を読む読まないは本人の自由意志による選択の上でである。それによってダメージをうけても、疑似体験であり、それとおなじ様な体験をしてしまったときの予行練習として、そして自分ではない誰かがそういう体験をしてしまった時に支えられるように、心の準備の必要があるからだと言い聞かせている。

そしてもし疑似体験でも辛い思いをしたら、自分では抱え込まずに近くの大人にその思いを吐露するようにとも言っている。

疑似体験により苦しみをしり、また助けられる安心も知ることで、より成長したり、強くなれると思っているし、それが読書の成果の一つだとも思っているからだ。

 

名作とよばれる文学作品は、人間の心情という、時代や文化・文明が変わっても変化しない普遍的なものを描いているから、時代を超えて読まれている。だからこその名作である。

私は、そう思ってきたし、そう表現してきたが、茂木は次のように述べている。

古典を自分なりに現代に置き換えて読むおもしろさを発見できると、本の読み方が劇的に変わってくるはずです。 (124p)

 たしかに、時代を超えても置き換えられることは、すなわち「普遍」であるわけだ。

最近めざましいスピードで普及している電子書籍についても言及している。

私自身も電子書籍の愛用者である。まで、場所をとらない。一度に何冊も持ち歩き、探すのも検索機能がついているから楽である。あまりにも使いすぎて、iPad miniは三台目である。容量が足りなくなったり、バッテリーがへたったりするためである。

それでも紙の本の方がよいと思っているのだが、なかなかうまくは説明できていなかった。それを茂木は次のように指摘。

紙の持っている「見渡しやすさ」が、全体の中で出来事をとらえるということに効果的に作用する(184p) 

 まず電子書籍だと、ファイルサイズは明記されているから、相対的に多いか少ないかの検討はつくが、長編か否かという判別はすくなくとも一瞬ではできない。長編を読むならそれなりに覚悟は必要だし、逆に短篇あればもう少しあってもいいのにと、少々消化不良を起こす。

また、推理小説などを読んでいると、そろそろ事件の核心に近づいてきたかどうかも、全ページの中で読んでいる箇所がどこか本を持っている手の感触によって見当がつく。まだ半分ぐらいのところで事件の真理に近づいたなと思わせても、その位置であればこの後大どんでん返しがくる、という予想ができる。

なにより、あとどれぐらいで読み終わるか見当がつけられるのは紙書籍のほうで、残りのページ数如何で読み切ってしまおうかどうか判断できる。

本を読んで印象に残るのは、文章はもちろんなのだが、表紙の手触りやページの厚みによる大体の場所などとセットになって記憶に残るのである。手垢がついたり、装幀がぼろぼろになることで、その本を読んだという歴史が刻み込まれるのである。

読書の体験とは、これらのことも含んでのことと言いたい。

どの本がどう役立つかということはわかれないけれど、たくさん本を読むと、それが腐葉土のように発酵して脳の中にいい土壌ができる。(158p) 

その土壌が培われることこそが、読書の意義である。