オリジナリティー
作家は文字という道具を用い、自分の世界を表現する。
語彙そのものは何万語という途方もない数であるが、それでも無限ではない。言い換えれば、限られた範囲の中で言葉を組み合わせて表現しなくてはならない。
作曲家はもっと大変である。基本は12音。あとは音の高低とリズムの組み合わせ、それから楽器の音色を組み合わせることで新たなものを創作しなければならない。
限定的な中で作り出すということは、たとえ数%の確立であっても、「類似」なものが生まれる。
創作手法の一つとして「パターン」がある。そのパターンが基本に沿ったもので、もしくは簡潔なものであればあるほど類似する可能性は高まる。
そしてその究極の簡潔なものに行きつくと、基本の形が同一であれば、当然類似どころか全く同一のものになるのも、可能性はゼロではない。
そこまでいきつくとどうなるか。先に生み出した者のものであるとし、後出のものは場合によっては「盗作」と見なされる。
悪意のある盗作は、話は簡単である。盗作した者が悪く、著作権侵害で責めを負えばよい。
問題は、無意識下での真似や思い込み、または偶然の産物である場合である。それも表現上では限りなく似通っていて、どこまでが類似でどこまでが盗作か判断できない場合である。
さらに問題をややこしくするのは、絵画にしても文体にしても、その表現技法を習得する一つの手段として、「模写」がある。絵画ミステリーで、修行のため精巧な模写を作成しているうちに悪徳ブローカーに目をつけられ、いつの間にか贋作事件に巻き込まれるていう話はよくある。
私自身の経験ではあるが、人の手書きの文章をテキストデータに書き起こしているうちに、その文体が自分のものとなってしまうということもある。
模写以外にも、一つの文芸的お遊びとして、「オマージュ」や「パロディ」、さらには「本歌取り」というものもある。
これもまた、時には著作権の侵害として、「盗作」呼ばわりされることもある。
本書は、言語学的にどこまでが「類似」の表現で、どこからが「盗作」と言わざるをえない同一性をもっているのかを、言語学的に検証したもの(題材に挙げてある文章に対して、盗作であるかどうかを断罪するものではない)。
結論から言ってしまうと、語彙単位ではなかなか「盗作」とは判断できない。助詞・助動詞が多少違いが生じる理由については、
(大学の授業で、学生に音読させたとき)例えば「東京へもどった」とある箇所を学生が「東京にもどった」と音読することがある。読み間違いではあるが、自身が日頃使っている表現を思わず発生してしまうということだろう。こういう場合、学生は自身が読み間違ったことになかなか気付かない。(87p)
といい、無意識下による改変に過ぎないと指摘する点が面白かった。
そもそも筆者が、これを執筆した背景には、レポートなどの剽窃問題があった。
(コピペの行為は)自身のオリジナリティーを自身で否定している(191p)
もうコピーアンドペーストという行為そのものが、自分のオリジナリティーそのものを否定した行為というわけだ。
さて、作家は言葉によるお遊びが好きである。そのお遊びが、前述した「オマージュ」や「パロディ」、「本歌取り」である。
最近では少年探偵団のオマージュ本が出された。
パロディは、芥川龍之介の王朝物作品が有名ではあるが、私のお気に入りのパロディを紹介したい。
今日、パパが死んだ。
昨日かもしれないけど、私には分からない。
殺人よ、こんにちは―赤川次郎ベストセレクション〈7〉 (角川文庫)
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もちろん元ネタはこれ。
きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。
これだけ比較すれば、語彙のレベルでも文章の構成もほぼ同一であるが、「ママン」が「パパ」に変更されただけで、秀逸なパロディ作品に華麗に変身する。
もちろん、オマージュにしろパロディにしろ、一部分を変化させただけでは評価されない。
タイトルと、主人公と、その親と年若い親の再婚候補者と海辺の別荘で過ごす設定の元ネタはこれ。
実を言うと、私が『殺人よ、こんにちは』を読んだのは小学校6年生。だから、『悲しみよこんにちは』を知るはずもなく、高校でこの作品を手にして思ったのは、サガンがパロディを書いたのか、ということだった。無知って怖い。
赤川次郎は、さらに自分の作品すらも発展させてしまうところがすごい。
殺人よ、さようなら―赤川次郎ベストセレクション〈8〉 (角川文庫)
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もう一つ、秀逸な本歌取り小説。
単独でも十分楽しめるが、元ネタを読んでおくともっと楽しめる。
そこに書かれていることが他のどの作品の影響をうけていたり、また意識しているか、さらには元ネタが何かなどを読み取ることは、本読みの一つの楽しみである。
ところが、近年はそういった楽しみは、「著作権保護」の下にできなくなっているらしい。
今邑彩は、文庫版のあとがきで激怒している。何があったのか、ググるくらいでは分からなかったが、著者がここまで書くと言うことは相当なことがあったのだろう。
盗作も剽窃もしてはならないことであるし、著作権も守らなければならない。
しかしながら「遊び」心を忘れず、そしてそれに対して寛容でありたい。