うさぎの書斎

司書教諭が読んだ本

心の中の100冊:004.『宣告』加賀乙彦――生きた人間の手

刑務所のリタ・ヘイワース」に続いて、日本の獄中物語の一つ『宣告』。
著者の加賀乙彦が、精神科医として死刑囚達との交流の中で生まれた問題意識を小説化した作品である。

 

宣告 (上巻) (新潮文庫)

宣告 (上巻) (新潮文庫)

 

 
「死刑」という人の生と死を直視しなければならない作品で、なかなか読みすすめるにはメンタル面の強さが要求されるが、この先の社会の荒波にもまれることを考えると辛抱して読んでほしいところではある。

作中の主人公は、1953年に起きたバー・メッカ殺人事件の正田昭をモデルとしている。

バー・メッカ殺人事件は、「アプレゲール犯罪」の一つともいわれている。正田昭が生きた時代は、第二次世界大戦を境に、戦前の価値観、道徳観が大きく覆され、その時代を最も多感な思春期を迎えた若者の中には、道徳観が崩壊し、無軌道ぶりを発揮する者も少なくなかった。そのような若者達によって引き起こされたのが「アプレゲール犯罪」である。


正田は、父は弁護士(幼少時に死別)、母も当時にしては相当な高学歴だった大学出身で教師となり、相当なインテリそうに生まれた。自身も戦後の混乱期であったにもかかわらず相応な教育を受け、まだ衣食住にも満たされていない人々が多くいた中で、満たされた人生だったはずなのである。しかし兄弟が引き起こした家庭内暴力や、本人もまた自堕落的な生活を好み、その挙げ句の犯罪となった。
事件については、いくつかの書籍でも取り上げられている。

 

図説 現代殺人事件史 (ふくろうの本/日本の歴史)

図説 現代殺人事件史 (ふくろうの本/日本の歴史)

 

 

 いうなれば、死刑になるほどの重大事件だった以上に、その時代を色濃く反映した犯罪であり、日本の輝かしい戦後復興と表裏一体にある「闇」を象徴する事件でもあった。


正田自身も、獄中で手記的な小説を書いている(私は未読)。 

 

夜の記録 (聖母文庫)

夜の記録 (聖母文庫)

 

 

 

獄中日記・母への最後の手紙 (1971年)

獄中日記・母への最後の手紙 (1971年)

 

 

推薦入試対策として「読むべき本」を聞かれると(入試対策のために本を読むというのもどうかとは思うが)、結構な頻度でこの作品を推薦している。
死刑制度の問題は、社会が引き起こす現象(犯罪の背景にあるもの)、犯罪や信仰にいたる心理、また幼少期の親子関係や教育環境の問題など、法学部や社会学部、心理学部、教育学部と幅広い分野に繋げることが出来るからだ。さらにキリスト教系の学校であれば「ウケ」は一層良くなる(やっぱり本末転倒だとは思ってるが)。


以前、某キリスト教系女子大の推薦入試を受験する生徒に、本書を読ませたことがある。一読しただけでは、私が薦めた意図まで読み切れず、泣きつかれたため、幼児教育を学ぼうとしている人間の視点でみて、主人公の幼児時代の生育環境についてどう思うか、それから死刑囚として自分の罪を直視し、人々との様々な形での交流を通して信仰にいたる心理について、キリスト教主義学校で学びこれからも学んでいく一人としてどう感じたのか、その視点で読むようにアドバイスしたところ、面接官がこの本に触れたことにいたく感激するたまりいろいろと詳細に聞かれて、かえって閉口したらしい。まあ根が真面目で、一夜漬けでも作品を丁寧に読みすすめたおかげで面接も乗り切ったから、結果オーライか。

 

前述した通り、本書にはさまざまに命をめぐって重い問題提起をしている。筆者自身がどこまで意識したかどうかは分からないが、主人公も、そのモデルとなった正田も、ある意味戦争が捲き起こした「時代」の犠牲者である。単に戦闘で勝つか負けるかの話ではない。様々な形で、その国の人々の人生を左右させてしまう恐ろしさも、私はここから読み取りたい。

心の中の100冊:003.「刑務所のリタ・ヘイワース」/スティーブン・キング――キリストは我が救い主

小説が映画化なりドラマ化されると書店に平積みされてより目につきやすく、また普段本を読まない層にもうけいられらるため、売上げや図書館での貸出の増加に大いに貢献する。
私の場合、もともと映像を見ることが好きではないというか、そもそも動画を認識することはどうやら不得手とする特性を持っているようで、映画などがきっかけでその書籍と出会うということはほとんどないが、今回取り上げる本書は例外中の例外と言っても良い。

 

ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)

ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)

 

 

 

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

 

 

本書の解説を読む限り、本書の「恐怖の四季」のシリーズは、マーケットでは売りにくい中篇の作品で、そのためキング自身にとって好き勝手に書くことが出来た作品らしい。だからどの作品もキング自身の傑作となり、「秋」にあたる「スタンド・バイ・ミー」が名作となったのは、キングの実力が遺憾なく発揮されたおかげでもあろう。おかげで、シリーズ名は影が薄くなり、作品が単発で注目されるようになってしまったが。
このシリーズ、「スタンド・バイ・ミー」がずば抜けて知名度があるのに対し、若干知名度が低いが次に目につくのは標題にもなっているため「ゴールデン・ボーイ」。
しかし私は、「刑務所のリタ・ヘイワース」が一番の傑作だと思っている。

主人公は妻とその恋人の殺害という「えん罪」で刑務所に服役することになった若い銀行マンが、過酷な刑務所の中で知能を駆使して生き抜き(まさしく人権など度外視で死ぬか生きるかの世界)、最後は脱獄する物語を、受刑者仲間の目を通して描いた物語である。名作『ショーシャンクの空に』の原作で、先述した通り、私には珍しく先に映像で見て感動し、原作を求めたのであった。

 

ショーシャンクの空に [DVD]

ショーシャンクの空に [DVD]

 

 


主題も多岐にわたる。えん罪、刑務所における人権問題、印象に左右されかねない陪審員制度、そして教育と貧困の問題、なにより図書館(知識・教養)が与える影響の大きさ。
いかに自分の信念に従って生きることが出来るかは、知識力を総動員することが大切なのか、そのためには本(図書館――囚人達にとって唯一知識教養教育を授けてくれるのが囚人図書館)がどれだけ必要とされているものなのか。
究極に極悪な環境での描写であるからこそ、教育の大切さ、本を読んで知識教養を深める大切さと贅沢さ、それが如実にわかる作品でもある。

 

キング自身、大学図書館で働いた経験もあるので、司書や図書館関係者からみても面白い作品がある。

 

図書館警察 (Four past midnight (2))

図書館警察 (Four past midnight (2))

 

 今だと、『図書館戦争』との比較研究も面白いかも知れない。

図書館戦争

図書館戦争

 

 映画を観てからでもいいし、作品をよんでから映画を観てもいい。何回もよんで主人公の生き様について考えて欲しい1冊。

心の中の100冊:002.『本が多すぎる』斎藤美奈子ーー本が多すぎる〜♪

読む本に困ったら、人のオススメに頼るのも本探しの一つである。世の中には結構ブックリスト的なものにあふれてる。学校でも配られたりしているだろう。勤務校でも作っている。

ただブックリスト、難点は誰が作っても誰が読んでも、だいたい紹介されている本の一割になんとなく興味が湧き、実際読んで面白いと感じるのは1%だ。作り手として子供の反応と、なによりブックリストは好きで色々見てきて、本好きと言われる私が実際に感じた割合だから、あながち間違えではないと自信がある。もし自分が作ったブックリストで、2割以上の本に興味を示してくれたら、それはそうとう子供の心を掴んでいるということだ。

その中でもお気に入りの著者は、斎藤美奈子。だから2冊目は彼女の著作の中から。

 

本が多すぎる (文春文庫)

本が多すぎる (文春文庫)

 

 

ひさびさに自分に大ヒットな一冊であった。何がって、タイトルが。

そうよ、そうよ、本がとにかく多すぎて、読むのに追いつかないのよ!という悲鳴にも似た共鳴。

まして、ちょうど生徒からこの本を紹介された直後だったから、余計混声四部合唱で、インパクトに残りやすい上昇音形での「本が多すぎる〜♪」とワンフレーズが出来上がり、脳内再生が繰り返されてしまったから。

 

 

くちびるに歌を (小学館文庫)

くちびるに歌を (小学館文庫)

 

 

斎藤美奈子の読み方は、優等生的な読み方ではなく、なかなか鋭い突っ込みが多く、ユーモラスなところが好きである。なにより、膨大な知識量をフル活用している点が、自分の知的好奇心に火をつけてくれる。米原万里にも共通したものがある。

また選択する本もなかなかである。硬いものから柔らかいものまで、その幅の広さには驚くばかりである。池澤春菜も結構な活字中毒だが、書評等になるとどうしても連載媒体や読者層の関係もあってか、小説が多い。

 

乙女の読書道

乙女の読書道

 

 

あとは大学教授で著名な方々は、やっぱり小難しいものが多い。それはそれでいいのだが、娯楽的に読みつつ次に読む本も探せるとなると、わたしには斎藤美奈子が適任だったりする。

そんなわけで、収録本も最多を競うであろうこれは、もう私にとってバイブルみたいなもんである。

 

本の本 (ちくま文庫)

本の本 (ちくま文庫)

 

 

書評といえば、なぜかうちの卒業生たちで芸能人として生計を立てているのは、結構読書家で、しかも本を出すほどである。

多分、卒業生で一番有名であろう方は、作詞だけでは飽き足らず、昨年とうとう小説まで書いた。(エッセイ、絵本はすでに刊行済み)

某女優も書評集を出している。ちなみにこの2人は私が奉職する以前の生徒。

某女優がとうとう書評集だしたか、と知った矢先、私が在職してからの生徒で、方々のインタビューで高校時代好きだった居場所にうちの図書室をあげていたやはり某女優が、インターネットで書評サイトの担当となった。

私と直接は関わってない卒業生だったが、やっぱりこの分野に興味を持ち影響を与える仕事をしてくれてることは素直に嬉しい。

 

高度情報化社会となって、本は要らなくなったと嘯く人々がいる。

情報量はたしかにインターネット上の方が多いかもしれない。同じ情報探そうにも二度と行きつけなさそうと思ったことも結構ある。

しかしだ、私は本の世界の方がもっと壮大な海原だと思ってる。インターネットは、ゴミが多く散乱している近場の海、本の世界は陸地から遠く離れ深海の域の違い。なにより歴史が違う。インターネットはたかだか長く見積もっても50年、本は文字の発明から2000年以上の歴史がある。最近ではデジタルアーカイブなどで文字記録はインターネットでも共有できるようになったが、紙の劣化やシミなどから読み取れる情報までは無理である。

なによりも、デジタル情報は、極端な話強力な磁力一つあれば一瞬で消えてしまう泡沫のもの。本が負けるということはないと信じてる。

だから、この先も「本が多すぎる」日々は続く。でもそれは悲鳴とはいえ、嬉しい悲鳴である。それにしても斎藤美奈子ですら、「本が多すぎる」というのだから、我々凡人からみたら、それ以上に「本が多すぎる」。

 

心の中の100冊:001.『寵児』津島佑子――「父」の不在

第1冊目を何にしようかと迷いに迷ったあげく、もっと別の機会にとか思いつつも、今の私の血と肉となったこの人を挙げる。津島佑子である。今の子どもたちには、「太宰治の娘」から紹介しないとならないと思う。

寵児 (講談社文芸文庫)

寵児 (講談社文芸文庫)

 

 「父」の存在も「夫」の存在も拒否して宿った命を一人で抱えて生きようとする女性が主人公。さまざまなしがらみや偏見を振り払い、一人で生きていこうとする主人公に待ち受けていたのは、我が子と思った正体が「想像妊娠」だったという事実。

この作品を、生徒に薦めるかと聞かれたら、多分薦めることはないと思う。実際、津島佑子太宰治がらみのところで紹介はするものの、薦める作品となると、子どもの心に訴える作品としては難しい気がして薦めにくい。

 

津島は、太宰治の3番目の子どもとして生まれた。その年、太宰にはもう一人子どもが誕生している。太田静子との間にできた太田治子である。そして津島が一歳の時、太宰は衝撃的な心中事件を起こし、命を絶つ。あまりに幼すぎた津島にとって、「父」の記憶はないに等しく、その後あらゆる作品を通して「父」の不在が作品のモチーフとなっていった。それは「知らない」という意味では無意識のことだったろうし、またあまりにも有名すぎる父であったがゆえ、強烈に意識していたのも事実である。処女作の「夜の……」は、太宰の作風を意識した作品であった。それ以降は、太宰の影は消える。しかし作家として常に意識続けていたからこそ、太宰の影が消されたのではないかと思う。

同い年の異母姉妹で同じ職業ということもあり、太田治子とはなにかと比較されてきた。その上、両者は父に対する態度としては全く正反対である。

「父」の存在をかき消すかのような津島に対して、太田治子の方は、アイデンティティの確立もあったのだろう、徹底して「父」とそして「母」を追い求めた人である。 

 父の故郷にも自己のルーツを求めて足を運び、高校時代には義姉(太宰の長女)に会いに大学にまで押しかけ、拒絶される体験も持つ。

 

さて、津島佑子の話に戻す。

津島の作品は、とにかく男は存在するのだが、「父」はもちろん、「父」に繋がる性的役割の 「夫」も存在しない。もちろん「夫」は出てくるのだが、大概は元「夫」であり、その役割は抹消された状態でしか出てこない。

ひとえに、彼女自身の人生が作品に投影された結果であろう。

 

 ようやく太宰の姿をうっすらとではあるが登場させたのが、母方の一族の歴史を題材に描いたこの作品である。NHK朝の連続テレビ小説純情きらり』の原案でもある。

火の山ー山猿記(上) (講談社文庫)

火の山ー山猿記(上) (講談社文庫)

 

 富士の麓の町に生まれ育った石原美智子が、太宰と結婚する前後の物語として太宰が描いた作品がこちら。 

富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)

富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)

 

『火の山』は、太宰治関連の物語として子どもたちに薦めている。 

 

「父」の不在と同時に、「男」も希薄な存在といっては語弊があるが、生命やどる身体を持つ存在の「男」も実は津島作品では不在がちである。どこかこの世には存在していないような霧のかかったような描写が多い。それもそのはず、生後間もなく男性として一番近いはずの 「父」が死亡、家族の中の唯一の男性で一番仲の良かった兄とは子どものうちに死別、そして息子も幼いうちに事故死でなくしている。いずれの死も、彼女にとって現実の世界で起きたこととは認めがたかったらしく、あまりにも心許ない不確かな存在として作品に描き続けた。

津島は、作品世界にその時々のプライベートな出来事を作品に組み込んでいるため、執筆中なにが起きているのか非常にわかりやすい作家であった。彼女が最後の伴侶を得た時、ちょうどそれらしき人物が作品内に出現したときだったので、耳に入ってきたとき驚かなかった位だ(出版関係、日本文学関係者の間で、スキャンダラスに伝わってきた)。

『寵児』が書かれた頃、津島は後に事故死で失う長男を出産した直後であった。主人公と登場する男たちとの関係は、当時の津島自身の人間関係に近く、妊娠した子どものおかれた環境もまた同様であった。想像妊娠か実際の妊娠かの違いだけである。ただ、後年息子を失い、死を認められなかったことで「不確かな存在」として書き続けたのをみてしまうと、『寵児』は予言的なものにも思えてしまうのである。後付けであることは承知の上だが。

 『寵児』で描かれた「母性」ないし「女性」は、セクシャリティとしての「性」であり生まれつきの「性(さが)」として「母」と「女」の迷いを描いた作品であり、それに悩み続けた津島佑子の原点とも言える作品である。

そして「母性」と「女性」との関係は、私自身の文学研究のテーマとなり、津島佑子は卒論で、大学院では岡本かの子研究へとつながった。その上、大学院時代には太宰研究を専門にする師匠と仲間に囲まれたせいもあって、国語教師となった現在では必要以上に太宰治を語る教師となり、学校史に関わることになったお陰で太田治子にも関係して、と、もう何が何だかわからないほど、私の血肉となっている。

 

 折しも今日2月18日は、津島佑子2回目の命日である。祈りたい。

Introduction:心の中の100冊

さて、かなり長期間放置してしまいました。忘れていたわけではないんです、単なるずぼらです。書くのは好きなんだけど、面倒くさがり屋の方が強く主張してしまうし、なによりも結構時間かけてしまうので、次の本を読みたい……という感じです。

それでも何かしらの形で、本について発信したいと思っていたら、こんなツイートが。

 

自分の心の中の100冊の基本図書。

図書館、特に学校図書館に関わる人間にとって、子ども一人一人にあった図書に出会わせるためには、基本図書を持っていて引き出しを多くしておいたほうがよいのと、子どもも大人が「目を輝かせて」薦めるぐらいお気に入りの本を紹介してもらえると、読んでみようかなと思わせることも多くなるから。

私が子どもたちにお薦めの本を紹介する時、その子どもの好みや読もうとしている理由によって紹介する本を幾通りにも変えている。それは、常に複数の候補作を心の中に持っているからだ。なので、一度その心の100冊を明文化したいと思う。

できたら、他の人にも心の100冊明文化して欲しいな、と。私は子どもたちに薦めるためですが、目的は別でかまわない。「心の」中にあるだけでもいいんだけれど、私としても参考にしたいし、情報交換で見えてくることも学べることも沢山ある。

 

それだけ本の世界は海原の如し。

2017年には向けて

恐ろしいもので、現職に就いて15年目を迎えようとしてます。

この間、いろんな形で本を紹介していこうと頑張ったつもりですが、とにかく読みたい本が先立ち、紹介はつい後回し…。

少なくとも、来年は今年より冊数多く紹介できればいいな、と、今年はわずか二冊だったので、かなり低い目標をかがけます(^^;)

 

何はともあれ、今後もよろしくお願いします。

英語は共通言語になり得ない

私が作文教育関係で教材研究をする時、必ず手に取るのが外国語専門の言語学関係者の書籍である。少し前なら鈴木孝夫や外山 滋比古あたりの著作を愛用していた。

日本人学者による日本語学のための書籍は、基本的に日本語学を学んでいる人間のためのものであって、その専門をかじっていない人間にはなかなか難解なのである。その点、外国語の専門家は、自分が教える相手にとっても外国語であるからたぶんそれをふまえて比較的平易に説明することも習慣化されているだろうし、何よりも日本語を外から見ることでわかる、私にとっては新しい視点が新鮮で面白かったからだ。特に大学・大学院時代通して、文学の講義・演習は履修できる限り履修したのにもかかわらず、言語学関係はことごとく逃げ回っていた私には、わかりやすく日本語について説明してくれる格好の著者たちである。

最近はもっと具体的に生徒達にどうてにをはの使い方をおしえたり、ありがちな間違いや勘違いを理論的に正していくかが、私にとっての課題。

高校生相手なんだから、きちんと論理的にしかもわかりやすく説明しないと、生徒も納得しないし身にもつかない。そこでよく利用するようになったのは、日本語学習者のためのテキストである。敬語の使い方などはこちらの方がわかりやすいし、どういう点で躓くのか、またどのような思考からそのような間違いに行き着いてしまうのか、もわかるからだ。高校生ぐらいになると似たような間違い例も見つかるため非常に参考になっている。

一方で、最近つねづね考えさせられているのは、言語活動の読む・書く・聞く・話すのうち、読む・書くは非常に高度な言語活動であるにもかかわらず、その点は無視され四技能を一緒くたにされている印象がぬぐえてないことである。英語教育でもそうなのだが、下手すると話す技能が重視され、より高度で訓練を受けなければならないはずの読み・書きがないがしろにされてしまっているからだ。もしくは、それほど表現活動ができていないのに、できているかのように幻覚を見ているかのようにも思えるのが、最近危惧しているところ。

そういうなかで、いかにわかりやすく伝えることが大切か、ということを生徒達には訴えてきたのであるが、意外にも大人たちがそれを理解していない。ムダに長い文章が多い。特に教師という職種は、文字を読んだり書いたりするのが比較的得意な人々の集まりでもあるせいか、簡潔にわかりやすくという視点が抜け落ちてしまう困った点がある(かくいう私も、止められなければ長文になる傾向あり)。

わかりやすく簡潔にどう日本語を書いていくのか、それが最近の関心領域だから、この本はすぐに目に入った。 

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

 

 読み出して、一瞬期待を裏切られる。

じつはこれ、日本語そのもののテーマではなく、多文化共生が主題であるからだ。

日本語を話すのは、決して日本人だけではない。

例えば台湾。日本統治下で教育を受けた人々の多くは、日本語話者として長く読み書きをしてきた。今でも、北京語を話せたりしても、複雑なことを考えたり心境などを表現するには日本語の方が得意とする人は多い。

国内に目をむければ、在日外国人の人々。そしてちょっと未来に目を向ければ、難民・移民も今後は増えていくであろうし、その時彼らの多くは日本語話者となるからだ。

特に難民・移民に限定した場合、多くの場合はまず貧しく、母語や母国での教育も満足でないことが多い。そういう人々が日本に来たら使う言語は何であろうか? ゼロから外国語を学ぶ必要があり、就職や生活していくためには、その定住先の言語を学ぶのが手っ取り早いものである。たしかに日本にいて日本で生活していく言語的マイノリティーな人々にとって、英語は共通言語になり得ない。だからこそ、どんなに多言語表記がすすんでも「やさしい日本語」であることが必須なのだ。

本書では日本定住の外国人ばかりでなく、障がいをもつ人々に対する言語的配慮にも論究しており、さまざまな視点で「やさしい日本語」の必要性を教えてくれる。

それと同時に日本語とはなにか、という問を違った視点から見つめ直すのによいきっかけとなった。

なお付録の「やさしい日本語マニュアル」は日本語を母語にしている人々にも充分使える内容であるので、活用していきたい。