うさぎの書斎

司書教諭が読んだ本

心の中の100冊:003.「刑務所のリタ・ヘイワース」/スティーブン・キング――キリストは我が救い主

小説が映画化なりドラマ化されると書店に平積みされてより目につきやすく、また普段本を読まない層にもうけいられらるため、売上げや図書館での貸出の増加に大いに貢献する。
私の場合、もともと映像を見ることが好きではないというか、そもそも動画を認識することはどうやら不得手とする特性を持っているようで、映画などがきっかけでその書籍と出会うということはほとんどないが、今回取り上げる本書は例外中の例外と言っても良い。

 

ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)

ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)

 

 

 

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

 

 

本書の解説を読む限り、本書の「恐怖の四季」のシリーズは、マーケットでは売りにくい中篇の作品で、そのためキング自身にとって好き勝手に書くことが出来た作品らしい。だからどの作品もキング自身の傑作となり、「秋」にあたる「スタンド・バイ・ミー」が名作となったのは、キングの実力が遺憾なく発揮されたおかげでもあろう。おかげで、シリーズ名は影が薄くなり、作品が単発で注目されるようになってしまったが。
このシリーズ、「スタンド・バイ・ミー」がずば抜けて知名度があるのに対し、若干知名度が低いが次に目につくのは標題にもなっているため「ゴールデン・ボーイ」。
しかし私は、「刑務所のリタ・ヘイワース」が一番の傑作だと思っている。

主人公は妻とその恋人の殺害という「えん罪」で刑務所に服役することになった若い銀行マンが、過酷な刑務所の中で知能を駆使して生き抜き(まさしく人権など度外視で死ぬか生きるかの世界)、最後は脱獄する物語を、受刑者仲間の目を通して描いた物語である。名作『ショーシャンクの空に』の原作で、先述した通り、私には珍しく先に映像で見て感動し、原作を求めたのであった。

 

ショーシャンクの空に [DVD]

ショーシャンクの空に [DVD]

 

 


主題も多岐にわたる。えん罪、刑務所における人権問題、印象に左右されかねない陪審員制度、そして教育と貧困の問題、なにより図書館(知識・教養)が与える影響の大きさ。
いかに自分の信念に従って生きることが出来るかは、知識力を総動員することが大切なのか、そのためには本(図書館――囚人達にとって唯一知識教養教育を授けてくれるのが囚人図書館)がどれだけ必要とされているものなのか。
究極に極悪な環境での描写であるからこそ、教育の大切さ、本を読んで知識教養を深める大切さと贅沢さ、それが如実にわかる作品でもある。

 

キング自身、大学図書館で働いた経験もあるので、司書や図書館関係者からみても面白い作品がある。

 

図書館警察 (Four past midnight (2))

図書館警察 (Four past midnight (2))

 

 今だと、『図書館戦争』との比較研究も面白いかも知れない。

図書館戦争

図書館戦争

 

 映画を観てからでもいいし、作品をよんでから映画を観てもいい。何回もよんで主人公の生き様について考えて欲しい1冊。

心の中の100冊:002.『本が多すぎる』斎藤美奈子ーー本が多すぎる〜♪

読む本に困ったら、人のオススメに頼るのも本探しの一つである。世の中には結構ブックリスト的なものにあふれてる。学校でも配られたりしているだろう。勤務校でも作っている。

ただブックリスト、難点は誰が作っても誰が読んでも、だいたい紹介されている本の一割になんとなく興味が湧き、実際読んで面白いと感じるのは1%だ。作り手として子供の反応と、なによりブックリストは好きで色々見てきて、本好きと言われる私が実際に感じた割合だから、あながち間違えではないと自信がある。もし自分が作ったブックリストで、2割以上の本に興味を示してくれたら、それはそうとう子供の心を掴んでいるということだ。

その中でもお気に入りの著者は、斎藤美奈子。だから2冊目は彼女の著作の中から。

 

本が多すぎる (文春文庫)

本が多すぎる (文春文庫)

 

 

ひさびさに自分に大ヒットな一冊であった。何がって、タイトルが。

そうよ、そうよ、本がとにかく多すぎて、読むのに追いつかないのよ!という悲鳴にも似た共鳴。

まして、ちょうど生徒からこの本を紹介された直後だったから、余計混声四部合唱で、インパクトに残りやすい上昇音形での「本が多すぎる〜♪」とワンフレーズが出来上がり、脳内再生が繰り返されてしまったから。

 

 

くちびるに歌を (小学館文庫)

くちびるに歌を (小学館文庫)

 

 

斎藤美奈子の読み方は、優等生的な読み方ではなく、なかなか鋭い突っ込みが多く、ユーモラスなところが好きである。なにより、膨大な知識量をフル活用している点が、自分の知的好奇心に火をつけてくれる。米原万里にも共通したものがある。

また選択する本もなかなかである。硬いものから柔らかいものまで、その幅の広さには驚くばかりである。池澤春菜も結構な活字中毒だが、書評等になるとどうしても連載媒体や読者層の関係もあってか、小説が多い。

 

乙女の読書道

乙女の読書道

 

 

あとは大学教授で著名な方々は、やっぱり小難しいものが多い。それはそれでいいのだが、娯楽的に読みつつ次に読む本も探せるとなると、わたしには斎藤美奈子が適任だったりする。

そんなわけで、収録本も最多を競うであろうこれは、もう私にとってバイブルみたいなもんである。

 

本の本 (ちくま文庫)

本の本 (ちくま文庫)

 

 

書評といえば、なぜかうちの卒業生たちで芸能人として生計を立てているのは、結構読書家で、しかも本を出すほどである。

多分、卒業生で一番有名であろう方は、作詞だけでは飽き足らず、昨年とうとう小説まで書いた。(エッセイ、絵本はすでに刊行済み)

某女優も書評集を出している。ちなみにこの2人は私が奉職する以前の生徒。

某女優がとうとう書評集だしたか、と知った矢先、私が在職してからの生徒で、方々のインタビューで高校時代好きだった居場所にうちの図書室をあげていたやはり某女優が、インターネットで書評サイトの担当となった。

私と直接は関わってない卒業生だったが、やっぱりこの分野に興味を持ち影響を与える仕事をしてくれてることは素直に嬉しい。

 

高度情報化社会となって、本は要らなくなったと嘯く人々がいる。

情報量はたしかにインターネット上の方が多いかもしれない。同じ情報探そうにも二度と行きつけなさそうと思ったことも結構ある。

しかしだ、私は本の世界の方がもっと壮大な海原だと思ってる。インターネットは、ゴミが多く散乱している近場の海、本の世界は陸地から遠く離れ深海の域の違い。なにより歴史が違う。インターネットはたかだか長く見積もっても50年、本は文字の発明から2000年以上の歴史がある。最近ではデジタルアーカイブなどで文字記録はインターネットでも共有できるようになったが、紙の劣化やシミなどから読み取れる情報までは無理である。

なによりも、デジタル情報は、極端な話強力な磁力一つあれば一瞬で消えてしまう泡沫のもの。本が負けるということはないと信じてる。

だから、この先も「本が多すぎる」日々は続く。でもそれは悲鳴とはいえ、嬉しい悲鳴である。それにしても斎藤美奈子ですら、「本が多すぎる」というのだから、我々凡人からみたら、それ以上に「本が多すぎる」。

 

心の中の100冊:001.『寵児』津島佑子――「父」の不在

第1冊目を何にしようかと迷いに迷ったあげく、もっと別の機会にとか思いつつも、今の私の血と肉となったこの人を挙げる。津島佑子である。今の子どもたちには、「太宰治の娘」から紹介しないとならないと思う。

寵児 (講談社文芸文庫)

寵児 (講談社文芸文庫)

 

 「父」の存在も「夫」の存在も拒否して宿った命を一人で抱えて生きようとする女性が主人公。さまざまなしがらみや偏見を振り払い、一人で生きていこうとする主人公に待ち受けていたのは、我が子と思った正体が「想像妊娠」だったという事実。

この作品を、生徒に薦めるかと聞かれたら、多分薦めることはないと思う。実際、津島佑子太宰治がらみのところで紹介はするものの、薦める作品となると、子どもの心に訴える作品としては難しい気がして薦めにくい。

 

津島は、太宰治の3番目の子どもとして生まれた。その年、太宰にはもう一人子どもが誕生している。太田静子との間にできた太田治子である。そして津島が一歳の時、太宰は衝撃的な心中事件を起こし、命を絶つ。あまりに幼すぎた津島にとって、「父」の記憶はないに等しく、その後あらゆる作品を通して「父」の不在が作品のモチーフとなっていった。それは「知らない」という意味では無意識のことだったろうし、またあまりにも有名すぎる父であったがゆえ、強烈に意識していたのも事実である。処女作の「夜の……」は、太宰の作風を意識した作品であった。それ以降は、太宰の影は消える。しかし作家として常に意識続けていたからこそ、太宰の影が消されたのではないかと思う。

同い年の異母姉妹で同じ職業ということもあり、太田治子とはなにかと比較されてきた。その上、両者は父に対する態度としては全く正反対である。

「父」の存在をかき消すかのような津島に対して、太田治子の方は、アイデンティティの確立もあったのだろう、徹底して「父」とそして「母」を追い求めた人である。 

 父の故郷にも自己のルーツを求めて足を運び、高校時代には義姉(太宰の長女)に会いに大学にまで押しかけ、拒絶される体験も持つ。

 

さて、津島佑子の話に戻す。

津島の作品は、とにかく男は存在するのだが、「父」はもちろん、「父」に繋がる性的役割の 「夫」も存在しない。もちろん「夫」は出てくるのだが、大概は元「夫」であり、その役割は抹消された状態でしか出てこない。

ひとえに、彼女自身の人生が作品に投影された結果であろう。

 

 ようやく太宰の姿をうっすらとではあるが登場させたのが、母方の一族の歴史を題材に描いたこの作品である。NHK朝の連続テレビ小説純情きらり』の原案でもある。

火の山ー山猿記(上) (講談社文庫)

火の山ー山猿記(上) (講談社文庫)

 

 富士の麓の町に生まれ育った石原美智子が、太宰と結婚する前後の物語として太宰が描いた作品がこちら。 

富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)

富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)

 

『火の山』は、太宰治関連の物語として子どもたちに薦めている。 

 

「父」の不在と同時に、「男」も希薄な存在といっては語弊があるが、生命やどる身体を持つ存在の「男」も実は津島作品では不在がちである。どこかこの世には存在していないような霧のかかったような描写が多い。それもそのはず、生後間もなく男性として一番近いはずの 「父」が死亡、家族の中の唯一の男性で一番仲の良かった兄とは子どものうちに死別、そして息子も幼いうちに事故死でなくしている。いずれの死も、彼女にとって現実の世界で起きたこととは認めがたかったらしく、あまりにも心許ない不確かな存在として作品に描き続けた。

津島は、作品世界にその時々のプライベートな出来事を作品に組み込んでいるため、執筆中なにが起きているのか非常にわかりやすい作家であった。彼女が最後の伴侶を得た時、ちょうどそれらしき人物が作品内に出現したときだったので、耳に入ってきたとき驚かなかった位だ(出版関係、日本文学関係者の間で、スキャンダラスに伝わってきた)。

『寵児』が書かれた頃、津島は後に事故死で失う長男を出産した直後であった。主人公と登場する男たちとの関係は、当時の津島自身の人間関係に近く、妊娠した子どものおかれた環境もまた同様であった。想像妊娠か実際の妊娠かの違いだけである。ただ、後年息子を失い、死を認められなかったことで「不確かな存在」として書き続けたのをみてしまうと、『寵児』は予言的なものにも思えてしまうのである。後付けであることは承知の上だが。

 『寵児』で描かれた「母性」ないし「女性」は、セクシャリティとしての「性」であり生まれつきの「性(さが)」として「母」と「女」の迷いを描いた作品であり、それに悩み続けた津島佑子の原点とも言える作品である。

そして「母性」と「女性」との関係は、私自身の文学研究のテーマとなり、津島佑子は卒論で、大学院では岡本かの子研究へとつながった。その上、大学院時代には太宰研究を専門にする師匠と仲間に囲まれたせいもあって、国語教師となった現在では必要以上に太宰治を語る教師となり、学校史に関わることになったお陰で太田治子にも関係して、と、もう何が何だかわからないほど、私の血肉となっている。

 

 折しも今日2月18日は、津島佑子2回目の命日である。祈りたい。

Introduction:心の中の100冊

さて、かなり長期間放置してしまいました。忘れていたわけではないんです、単なるずぼらです。書くのは好きなんだけど、面倒くさがり屋の方が強く主張してしまうし、なによりも結構時間かけてしまうので、次の本を読みたい……という感じです。

それでも何かしらの形で、本について発信したいと思っていたら、こんなツイートが。

 

自分の心の中の100冊の基本図書。

図書館、特に学校図書館に関わる人間にとって、子ども一人一人にあった図書に出会わせるためには、基本図書を持っていて引き出しを多くしておいたほうがよいのと、子どもも大人が「目を輝かせて」薦めるぐらいお気に入りの本を紹介してもらえると、読んでみようかなと思わせることも多くなるから。

私が子どもたちにお薦めの本を紹介する時、その子どもの好みや読もうとしている理由によって紹介する本を幾通りにも変えている。それは、常に複数の候補作を心の中に持っているからだ。なので、一度その心の100冊を明文化したいと思う。

できたら、他の人にも心の100冊明文化して欲しいな、と。私は子どもたちに薦めるためですが、目的は別でかまわない。「心の」中にあるだけでもいいんだけれど、私としても参考にしたいし、情報交換で見えてくることも学べることも沢山ある。

 

それだけ本の世界は海原の如し。

2017年には向けて

恐ろしいもので、現職に就いて15年目を迎えようとしてます。

この間、いろんな形で本を紹介していこうと頑張ったつもりですが、とにかく読みたい本が先立ち、紹介はつい後回し…。

少なくとも、来年は今年より冊数多く紹介できればいいな、と、今年はわずか二冊だったので、かなり低い目標をかがけます(^^;)

 

何はともあれ、今後もよろしくお願いします。

英語は共通言語になり得ない

私が作文教育関係で教材研究をする時、必ず手に取るのが外国語専門の言語学関係者の書籍である。少し前なら鈴木孝夫や外山 滋比古あたりの著作を愛用していた。

日本人学者による日本語学のための書籍は、基本的に日本語学を学んでいる人間のためのものであって、その専門をかじっていない人間にはなかなか難解なのである。その点、外国語の専門家は、自分が教える相手にとっても外国語であるからたぶんそれをふまえて比較的平易に説明することも習慣化されているだろうし、何よりも日本語を外から見ることでわかる、私にとっては新しい視点が新鮮で面白かったからだ。特に大学・大学院時代通して、文学の講義・演習は履修できる限り履修したのにもかかわらず、言語学関係はことごとく逃げ回っていた私には、わかりやすく日本語について説明してくれる格好の著者たちである。

最近はもっと具体的に生徒達にどうてにをはの使い方をおしえたり、ありがちな間違いや勘違いを理論的に正していくかが、私にとっての課題。

高校生相手なんだから、きちんと論理的にしかもわかりやすく説明しないと、生徒も納得しないし身にもつかない。そこでよく利用するようになったのは、日本語学習者のためのテキストである。敬語の使い方などはこちらの方がわかりやすいし、どういう点で躓くのか、またどのような思考からそのような間違いに行き着いてしまうのか、もわかるからだ。高校生ぐらいになると似たような間違い例も見つかるため非常に参考になっている。

一方で、最近つねづね考えさせられているのは、言語活動の読む・書く・聞く・話すのうち、読む・書くは非常に高度な言語活動であるにもかかわらず、その点は無視され四技能を一緒くたにされている印象がぬぐえてないことである。英語教育でもそうなのだが、下手すると話す技能が重視され、より高度で訓練を受けなければならないはずの読み・書きがないがしろにされてしまっているからだ。もしくは、それほど表現活動ができていないのに、できているかのように幻覚を見ているかのようにも思えるのが、最近危惧しているところ。

そういうなかで、いかにわかりやすく伝えることが大切か、ということを生徒達には訴えてきたのであるが、意外にも大人たちがそれを理解していない。ムダに長い文章が多い。特に教師という職種は、文字を読んだり書いたりするのが比較的得意な人々の集まりでもあるせいか、簡潔にわかりやすくという視点が抜け落ちてしまう困った点がある(かくいう私も、止められなければ長文になる傾向あり)。

わかりやすく簡潔にどう日本語を書いていくのか、それが最近の関心領域だから、この本はすぐに目に入った。 

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

 

 読み出して、一瞬期待を裏切られる。

じつはこれ、日本語そのもののテーマではなく、多文化共生が主題であるからだ。

日本語を話すのは、決して日本人だけではない。

例えば台湾。日本統治下で教育を受けた人々の多くは、日本語話者として長く読み書きをしてきた。今でも、北京語を話せたりしても、複雑なことを考えたり心境などを表現するには日本語の方が得意とする人は多い。

国内に目をむければ、在日外国人の人々。そしてちょっと未来に目を向ければ、難民・移民も今後は増えていくであろうし、その時彼らの多くは日本語話者となるからだ。

特に難民・移民に限定した場合、多くの場合はまず貧しく、母語や母国での教育も満足でないことが多い。そういう人々が日本に来たら使う言語は何であろうか? ゼロから外国語を学ぶ必要があり、就職や生活していくためには、その定住先の言語を学ぶのが手っ取り早いものである。たしかに日本にいて日本で生活していく言語的マイノリティーな人々にとって、英語は共通言語になり得ない。だからこそ、どんなに多言語表記がすすんでも「やさしい日本語」であることが必須なのだ。

本書では日本定住の外国人ばかりでなく、障がいをもつ人々に対する言語的配慮にも論究しており、さまざまな視点で「やさしい日本語」の必要性を教えてくれる。

それと同時に日本語とはなにか、という問を違った視点から見つめ直すのによいきっかけとなった。

なお付録の「やさしい日本語マニュアル」は日本語を母語にしている人々にも充分使える内容であるので、活用していきたい。

「隠れ読み」人生

我が一家は読書家、というより活字中毒一家であった。幼い時から、家の中には本が溢れていた。かつては「教育県」といわれ、さらには教員ないし教育関係に仕事に従事した人が多かったせいもあってか、本を買うことが何よりの楽しみであり、貧しい我が家では唯一の贅沢でもあった。

そんな一家に私が生まれたのだが、母はいわゆる「教育ママ」としてがんばった。英文科の大卒ということもあって、児童文学に対する心眼を持っていた。特別児童文学を勉強したわけでも、今みたいにインターネットがある時代でもないにも関わらず、出版流通事情がよくない長野県の山の上で、心眼があったということはすごいことである。

だから子どもに与える本も厳選していた。それは今でも感謝している。その母が買ってくれた全集といえば、これら。

集英社『ピクチャーランド(全25巻)』

この中の「ピッピロンドンへいく」がとりわけ好きだった。私の好きな西洋諸国であげるとすればイギリスをあげるのは、ピッピとホームズファンだからだろう。

講談社『母と子のメルヘン』

これは挿絵の素晴らしさで母は選んだらしい。ただし、内容は『サンドリヨン』にしても白雪姫にしても、子ども向けとしては原著に忠実(もしくは近い)で、けっこうグロテスクな人間の心の闇も見えたシリーズだった。

しかし、うちの母、そもそもがかなりの吝嗇(まあ、そのお陰で父の年収の割に私を東京の、しかも博士後期課程まで出してもらえたのだが)の上に、自分の読む本を買うお金を削ってまで娘に買い与えるのは苦痛だったらしく、この全集は残念ながら全巻買ってはもらえなかった。

コレクター気質も強い私にとっては、この経験から全集ものを全巻買うことが夢となり、現在の書籍には散財するようになった原点となっている。特に又従弟が、岩波少年文庫を相当数買って貰っていたので、うらやましいことこの上なかった。

ちなみに全集をそろえなければ気が済まないコレクター気質は父からのものか。数年に一度、高額な全集(ブリタニカ大百科も)を衝動買いしては夫婦げんかをしていたのを覚えてる。(そして娘は漁夫の利の如くそれを読みあさる)

話がそれた。

こんな吝嗇家の母だったから、娘に本を買い与えるのは、クリスマスと誕生日のみ、下手するとわずか2週間しか違わないため、クリスマスもお年玉も誕生日も一緒にされた。だから成長するとともに祖父母・親戚には図書券をねだる知恵がつき(現金だとすべて貯金にまわされた)、また祖母二人で隣町まで買い物に行くときにおねだりして買って貰った。あとはひたすら学校図書館にお世話になった。

また本があると勉強もお手伝いも日常の歯磨きすらすべてやらなくなるため、本が手元にあるだけで怒られるようになった。だから、隠れて読み続け、時には激高した母に本を燃やされたことすらある。

と、本については思い出が尽きない。

乱読の私にとって、学校図書館では、児童向け文学全集は格好の乱読の対象だった。残念なのは、そこに文字があれば良かった子なので、どこの出版社の物だとか、装幀はどうだったのか全く覚えていない点である。ちょっとだけ、読書記録の大切さを感じた一瞬。手かがりがない、うえに読んだ作品もいろいろな全集と混同しているため作品名だけでは絞れなかったりし、おまけに完全なる記憶違いも多いのでその全集について語れないのだ。ちなみに前述の全集についても、特定するのはかなり困難で、ピクチャーランドにいたっては、実家の倉庫から発掘してようやくわかった次第。

そんな訳で、人文書院のツイートで『少年少女のための文学全集があったころ』を出張滞在先で知るやいなや、書店に取り置きをネットで依頼(いやはや便利になった。宅配にしなかったのは、取り寄せと輸送時間すらもったいなかったため)。 

少年少女のための文学全集があったころ
 

 この本の感想を書くのは、私には難しい。

隅から隅まで共鳴してしまうからだ。そうでなかった部分は、こういう感性を持てた筆者に対する憧れであったり、羨望を感じてしまった。「読書感想文の憂鬱」の中で筆者はこう言う。

子どもに読書感想文を書かせることが果たしてよいことかどうか疑問に思うのは、作品を読んだ時に受けた印象を「かきまわしてはいけない」と思うからだ。

 

本当に大きな感動を覚えたとき、それは恐らく一生、その子の心に残る。言葉にしないまま、そっと胸の奥にしまっておくことで、その感動は子どもの成長と共に熟成し、心を豊かにする。

先日のこと。高校2年生のうちの生徒達には、『こころ』を読んでの感想文が出されているのだが、それに関する会話が耳に入ってきた。

 

こころ (ちくま文庫)

こころ (ちくま文庫)

 

 「この感動は心に留めておきたい。文字に起こすことで陳腐なものにしたくない」という。教師に向かってではなく、子ども同士での会話であるから、本心だったのだろう。語彙の量も豊富ではない子どもに、心の奥底にあるものを言語化させるのは難しく、その感動が書き切れない場合も多い。

 

ピアノリサイタルでの隠れ読みのくだりでは、彼女がなぜそんなにも『大きな森の小さな家』に夢中になれたのかよくわかったし、一方で母親に対する畏れも手に取るほどわかる。 

大きな森の小さな家 ―インガルス一家の物語〈1〉 (福音館文庫 物語)

大きな森の小さな家 ―インガルス一家の物語〈1〉 (福音館文庫 物語)

 

本書から感銘を受けるのは、具体的な作品に対す思いだけではない。司書教諭として、そして調査等が好きな私の気持ちを代弁してくれる箇所も多い。

前述のワイルダーに夢中になるあまり聴いていなかったピアノリサイタルを調べる過程や、「新しい女の登場」での与謝野晶子から「メリー・ボビンズ」にたどり着いた過程で探究心が満たされた時のわくわく感や充実感が書かれている。このわくわく感などの興奮が、次なる知欲求を満たそうとする原動力となるのだが、世の中の人の興奮をわかってもらうのは難しい。しかしこのような親しみやすい文章を紹介すれば、少しでもわかってもらえるのではないかなと思う。各作品についての部分も生徒に紹介したい大きな理由だが、私はここの部分も生徒に読むよう強く勧めたい。

 

筆者は、数多くの外国作品に触れ、また翻訳や抄訳についても本書で多く言及している。人の名前の表記や、言葉遊びのところにおおきく同意しつつも、筆者に対して強い憧れを抱くのが、子どもの頃に外国作品に純粋に楽しんで読んでいたという点である。

残念ながら、私にはそれができなかった。その当時にはその違和感ないし、作品に共鳴できない理由がわからなかったが、いまではわかる。西洋文化事情が全くわかっていなかったからである。

もちろん、児童向けの作品は、そのような知識が皆無でも充分わかるようになっているはずなのだが、活字中毒だったから活字をてはいたが、理解できないと心に入り込むまでは行かなかったのだ。

おちゃめなふたご」シリーズなどは好きではあったが、イースター休暇などが理解できず、季節感もつかめなくて困惑し、次第に外国文学から離れた要因でもあった。

 

おちゃめなふたご (ポプラポケット文庫 (412-1))

おちゃめなふたご (ポプラポケット文庫 (412-1))

 

 

また「母を訪ねて三千里」などのように、なぜ子どもを置いてまで他国に出稼ぎに行くのかも理解できず、さらには子どもだけで移動していることや、もっというとイギリスとインドの関係も良く理解できず、さらには凍死も理解できなかったから、長いこと「マッチ売りの少女」がどうしてマッチの火が消えるとともに死んでしまうのか理解できなかった。

私が再び外国文学に戻ってこれたのは、キリスト教主義学校で働くようになり、聖書について少しずつ学ぶようになってからである。キリスト教を知ることで、私の文学の世界が広まったのはいうまでもない。

幼かった私の頭は、ちょっとでも疑問にぶつかるとその先にある作品世界に入り込めなかったが、もし我が子がいたら、もちろん我が子でなくても全ての子どもたちに、私の二の舞を演じないように導いて行けたらと思ってる。その先まで行けた時、作品の文化的背景について全く知らなくても、なんとなくでもその作品から学べるのだろう。本を等して作品の文化的背景を知る意義について、筆者は「少年少女全集を永遠になれ」の章の最後で指摘している。

筆者は、『あしながおじさん』だけは買ってもらえなかったと嘆いているが、その背景は筆者の母君はそうとう英語に造形が深かったと推測される。たぶん原書で読んでもらいたいというだけではなかったはずだ。『あしながおじさん』も私にとっては読みにくい作品の一つであった。『アンネの日記』も同様。それは人称のせいでもある。

日本語の作品は、基本的に一人称の世界である。現代でこそ三人称もあるが、三人称はあくまでも神の視点をもつキリスト教文化であるから成り立っていたものである。だから英語では一人称から三人称まで明確な人称による区別がついているが、日本語に関しては基本が「私」である。したがって一人称以外は根づいていない(現代はたぶん「慣れた」という程度か)。だから日本語での二人称小説は日本語話者にとっては違和感を感じるのではないかと推測している。英語で読むから生きる人称であるならば、英語で読むべきである、と母君はそう本能的に(?)感じたのではないだろうかと推測して楽しんでみる。ちなみに『アンネの日記』は一人称ではあるが、他の人称があっての一人称である。そこは日本人の一人称とは異なるものだと感じている。

本書では多くの作品が紹介されており、懐かしく思う。その懐かしさを深めるために、少し読み返してみようと思う。特に大好きだった『若草物語』など。

もちろん知らない作品もあったので、ぜひとも読んでみたい。幼かった頃の時間を取りもどすように。

したがって、本書はは出てくる作品を読んでから読むのもよし、本書を読んでから読むのもよし、振り返りつつ感銘を共有したくなってから、本書を読み返すのもよし。幼い時から本好きだった人には至福の時を与えてくれる1冊だと思う。

 

そして相変わらず私の活字中毒の日々は続く。本を読んでいる限り、旦那のご飯も猫の餌もなし。今では座り込んで本を読んでいる限り餌はもらえない、と猫すら悟っている。